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生物学を変えるエピジェネティックス

By Stephen S. Hall | NEWSWEEK
ニューズウィークマガジーン 2009年7月13日号から

メンデルから始まった遺伝子の考えは、ワトソンとクリックのDNA螺旋構造の解明を経て、最近では世界を騒がせたヒトゲノム完全読み取りまでこぎつけた。これで難病の多くが解決されるかと思いきや、今やまったく新しい概念の遺伝が考えられ始め、我々は生物と医学の革命的時代に入ろうとしている。

この新しい遺伝学はエピジェネティックスと呼ばれ、次第に多くの科学者に受け入れられている。エピジェネティックスとは遺伝子がどう働くか、どう病気を発症させるかを説明する新しい学問で、癌のような深刻な病気の診断と治療に大きく貢献する可能性を秘めている。エピジェネティックスはヒトゲノムプロジェクトの達成で得られた多くの情報を説明するばかりでなく、既に難病患者の延命に成功している。

あまり公式には発表されていないが最近血液の癌や肺癌で、エピジェネティックを使った療法で成功が伝えられている。未だ予備段階ではあるが、アメリカ癌研究協会のマーガレット・フォティ氏によると、エピジェネティックは既に癌の診断と治療に画期的進歩を示しているという。その勢いに乗り、アメリカ国立衛生研究所も昨年の秋にエピジェネティックを重要研究項目に指定した。

「我々は今までゲノムを解き明かせば全てが分かる」と思っていたと1990年代にエピジェネティックの可能性を説いたロックフェラー大学のデイビッド・アリスは言う。「しかし、いざヒトゲノムが解き明かされると、ゲノムは入り口でしかなくこれから先に大変な難問が控えていた」とアリス氏は言う。

エピジェネティックスとは分子生物学を考える上での基本的方向転換である。DNAは確かに生物を作る基本骨格であるが、DNAの情報はDNAの上を覆う化学物質の層にコントロールされているのが次第に明らかになった。

このDNA台本の修正はエピミュテーションと呼ばれていて、遺伝子のスイッチを不自然に入れたり切ったりする。別の言葉で言い換えると、DNAと言う生命の台本が重要なのではなくて、その台本を包む包装が重要であるという、生物学的、遺伝学の革命的思考だ。

このDNAをより高いレベルからコントロールしている物質があるとする概念は、大変重要な意味を持つ。卵子が受精した瞬間は遺伝子全部が活躍するのは今まで分かっていたが、その沢山の遺伝子も、胎児が成長して行くにしたがってスイッチをオンにしたりオフにしたりして活動が変化して行く。人間であればこの現象は一生続く。例えばヘモグロビン遺伝子では、胎児の段階では胎児のヘモグロビン遺伝子がオンになっているが、出産と同時に大人のヘモグロビン遺伝子が活動を開始して胎児のヘモグロビン遺伝子はオフになる。これはエピジェネティック的変異により起こされている。受精卵から成長していく過程で、胎児の幹細胞は脳細胞、肝細胞、その他沢山の特化した細胞に分化成長して行くが、そのどの分化成長の過程でもDNAの情報は修正されている。思春期に入ると活動を停止していた遺伝子が急激に活動を開始する。年を取ると今までの経験が我々のDNAの活動に影響を与えるようになる。全てDNAを包む用紙が驚くほど変化して遺伝子に影響している。動物実験によると環境因子である子供の頃の食事、母親のケアーが我々のDNAにエピジェネティック的な変異をもたらすと言う。

過去10年間にエピジェネティックスへの関心が急激に増しているが、それには幾つかの理由がある。生物学的月面着陸ともてはやされたヒトゲノムプロジェクトは、DNAの台本の全てを読み解くと言う画期的情報をもたらしたが、いざそれを各々の病気の遺伝的要因に結びつけようとすると専門家は当惑したからである。DNAの書き損じ(遺伝子の古典的変異であり19世紀にグレゴール・メンデルにより最初に導き出された)は最近の”New England Journal誌”の医療コメンテーターによれば、ほんの一握りの病気にしか説明できないのが分かった。「我々は皆ワトソンとクリックの提唱した螺旋型DNAの基本モデルから遺伝を学んだ。しかし複雑な生物ではエピジェネティックスがDNAそのものより深く遺伝子の表現や病気の発生に関わっている」とアリスは言う。1990年代にアリス等は、どの細胞にも一般的に見られるある種の酵素は細胞にエピジェネティックス変異を起こしているのを確認している。

その酵素は2つの方法でDNAの情報を操作している。一つはDNA上にある種の化学物質を貼り付けて、遺伝子のオン・オフスイッチを覆ってしまう方法だ。この現象をDNAメチレーションと呼ぶが、DNAメチレーションは活動する遺伝子を沈黙させる。二つ目はDNAの包装をある種の酵素でかく乱する方法である。ものすごく細くて長いDNAのひもは、ヒストンたんぱく質の糸巻きに巻きついている。この酵素がDNAの包装に手を加えるとDNAが強く糸巻きに巻きついてしまう為に、細胞が情報を読めなくなってしまう。又逆にヒストンの糸巻きに巻きついて情報が読めなくなっていた遺伝子が読めるようになることもある。

最近5年の研究で、エピジェネティックス的遺伝子変異が癌の発症に決定的な役割をしているのが分かってきたと、マサチューセッツ・ケンブリッジのホワイト研究所、癌生物学の長老であるロバート・ワインバーグは言う。「DNAメチル化は、腫瘍抑制遺伝子の動作停止に大きく関わっている」とワインバーグは言う。癌発症の一つの原因に腫瘍を抑制する遺伝子の働きの停止が挙げられている。

各々のエピジェネティック的変化はDNAに化学的マークを残して行くゆえに、専門家は今そのマークを出来るだけ集めてエピゲノムを作成しようとしている。それにより病気の診断、予測、予防が出来るかも知れない。従来の遺伝子マーカーでは、遺伝子文字列の少しの変化を示していたのに対してエピジェネティックマーカーでは、遺伝子情報がどの部分で活動を停止させられていたか、あるいは活性化させられていたかを示す。エモリー医科大学のポウラ・バーチノは、あるDNAの一部が乳癌や肺癌で著しく活性化したり停止したりするのを発見している。ジョーンズ・ホプキンス大学では、脳腫瘍のエピジェネティックマーカーで患者の化学療法の適否を判断している。最近の研究では、DNAの表現を変える化学物質の層から情報を読み取れば、癌ばかりでなく、老化に関係する心臓病、糖尿病、そして心の病気である自閉症、鬱病、その他遺伝病全体を説明できるかも知れないという。

「遺伝子は一つでもエピゲノムはその数百倍もある」とイギリス、ケンブリッジ大学のウォルフ・レイクは言う。エピジェネティックスは物理学の”ひも理論”のような将来証明されるべき風変わりな仮説とは違い、実際問題を扱っていて効果はすでに臨床で証明されている。

1990年代にジョーンズホプキンス大学のステファン・ベーリンは、DNAのエピジェネティック変化が癌の発症により関わっていると発表した。腫瘍抑制遺伝子の機能の低下は遺伝子変異というよりエピジェネティック的抑制によるものであった。今年の5月には、南カリフォルニア大学のベーリンとピーター・ジョーンズが資金9億円を獲得して、肺癌、結腸癌、乳癌の患者により迅速なエピジェネティック治療を開始した。1年以内に暫定的結果を出す約束をしている。ホプキンス大学のグループは、2種類のエピジェネティック薬を使って、進行した肺癌の患者の一人を完全に治癒させている。「試験は未だ進行中で、エピジェネティック薬がどれだけ効果があるか、10%とか20%とかその程度ではないかと思いますが、非小細胞肺癌の初期及び進行状態の患者で確固とした結果を得つつあります」とベーリンは言う。「これはすごい結果だ。進行肺癌の予後は通常大変悪い」とアメリカ癌研究協会のマーガレット・フォティは言う。

今や、エピジェネティックスは医学を逆方向に回転させ始めている。従来、医師が投薬をする時にどのように投薬するのが最適であるかの理論は存在しなかった。実際、現在使われている癌治療薬の幾つかは使われ始めてから数十年にもなるが、間違った使われ方をしている。例えばアザシチジンと言う薬は、1960年代にチェコスロバキアで発見された癌治療薬で、医師は癌の細胞を殺すために使っていた。即ち患者の体が耐える限度まで処方する方法である。南カリフォルニア大学のジョーンズは、1980年代にこの薬にはもう一つの特殊な働きがあるのを発見した。その働きとは、DNAメチル化という分子レベルの粘着テープをはがして、癌抑制遺伝子のスイッチを元のオンに戻す働きだ。

1980年代にニューヨークのマウント・シナイ医科大学の腫瘍学の特別研究員であったルーイス・シルバーマンは、アザシチジンをエピジェネティック薬として使うことを提唱した。彼の考えではアザシチジンを従来使う量より少ない量を投与する。その結果少ない量のアザシチジンはある種の白血病の症状を軽減して患者の延命に成功した。アメリカ食品薬品安全局はこのアザシチジンを2004年に認めて、現在バイダザの名前で販売されている。

その他ハーバード、コロンビア大学、スローン・ケタリング癌センター等が幾つかのエピジェネティック薬を開発している。メチル化が遺伝子を沈黙させる効果がある他に、ある種の酵素がDNAの包装をきつくしたり緩くしたりして、遺伝子のスイッチをオン、オフすることも分かった。コロンビア大学のポール・マークスとロナルド・ブレスローは、ボリノスタットと呼ばれる小さな分子を作り出した。この分子はDNAの包装部分を変化させる酵素の活動を抑制する作用があり、それにより沈黙した遺伝子を再度活性化させることが出来る。この薬物は2006年にFDAに認可されて、希に起きるリンパ肉腫や他の癌の治療薬として試験的に使われている。この物質をメルクはゾリンザの商品名で販売している。臨床試験の結果大変勇気付けられるのは、これら第一、第二世代のエピジェネティック薬を組み合わせて使うと、癌細胞のエピジェネティック的変化を元に戻す力がより大きいことだ。

でも専門家は過剰の期待を戒めている。第一世代のエピジェネティック薬にはグリーベックのような大ヒット特効薬が無かったためである。グリーベックを慢性骨髄性白血病の治療に使うと、患者は劇的に軽快する。また、エピジェネティック薬を広く使った場合に起こり得る副作用も心配なのだ。エピジェネティック薬は癌細胞以外の一般細胞にも影響を与える恐れがある。それでも「この薬の秘めたる可能性はすごい」とアリスは興奮気味に話す。

エピジェネティックスの考えは薬の開発にとどまらない。一世代で獲得されたエピジェネティック的変化、例えば喫煙、食事の習慣等は子供、孫にまで及ぼすという研究もある。ケンブリッジ大学ベイブラハム研究所のレイクは、ねずみが生殖細胞を作る時に、どうやってエピジェネティック的変化を取り去るか、即ち細胞レベルでの粘着テープをどうしてDNAからはがすかを研究している。「ある種のエピジェネティック変異は生殖細胞が生産される時にも残るに違いない。エピジェネティック変異は子供や孫に伝わる可能性があると見ている分けです」とレイクは言う。

「これがどれほど一般的に起きているかは定かではないですが、起きるとすれば恐ろしいことで、メンデルの法則に逆らう所か、ダーウィンの進化論まで揺るがすことになる。だから我々はエピジェネティックスを話すときには大変慎重になる」と彼は続ける。



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