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貧困の脳に及ぼす影響

2016年8月25日
ニューズウィーク TECH & SCIENCEから
BY ERIKA HAYASAKI


南部カリフォルニア大学の脳創造性研究所で、15歳の少年が、タリバンに頭を銃撃されたマララ・ユスフザイのビデオを見ている。「タリバンは人の顔に硫酸をかける。でも私は絶対に学校を諦めないし、将来は医者になりたい」とマララは言う。

ビデオを見終わった15歳の少年は、無表情に面接者の質問に答えている。どう感じるかの質問に「分からない」、大人になったらどんな人になりたいのかに、「良い人」、大学に行きたいですかに、「行きたい」、大学卒業後に夢がありますかに、「考えた事がない」、どんな仕事に就きたいかに、「考えた事がない」と答える。

彼は、貧困家庭育ちの10代の若者で、南部カリフォルニア大学のメリー・ヘレン・ヤングが5年間かけてやる研究の被験者だ。この研究では文化、家庭環境、暴力が、人間の心にどのように影響するかを脳科学で追跡している。研究では、感動するビデオで見ながら、脳をMRIで測定する。

彼等は2年後、もう一度脳創造性研究所に呼び出される。ここには、MRI装置を始め、会議場、現代絵画と写真の展示室、科学の展示室そしてヨーヨーマのチェロの演奏まである学習センターである。

研究を開始すると間もなく、被験者の脳に異常を発見し、自覚、判断、倫理、感情の面で問題が起きているのが分かった。


貧困暴力地区の子供たちのMRI写真。数年置きに取り、変化を見る。神経細胞の連結が弱く、判断力、倫理感覚に問題が発生している。

ヤングの研究は、最近注目されている貧困と脳の関係を調べる研究である。最近の報告の一つは、貧困家庭に育った子供の脳では、海馬、前頭皮質と側頭葉の灰白質に発育不良があると説明している。(海馬は記憶に、前頭皮質は実行計画、衝動抑制、判断、社会性に関係し、側頭葉は言語、視野、音声、自覚に関係している。これ等の脳が共同作業することにより、学校で授業に集中する事が出来る)。

2015年、アメリカ医療協会誌に発表された研究では、連邦貧困基準(2016年レベルで家族4人に対して年収240万円)以下の子供では、灰白質の形成がかなり悪く、全国統一テストでも悪い成績と残したと報告している。2015年、ネイチャー・神経科学誌に掲載された研究では、低収入家庭の子供と年収1,500万円以上の家庭の子供の脳を比較すると、低収入家庭の子供では脳の表面積が狭かった。

「今までも、階級差による学校成績の違いは分かっていた。だからこれからは、環境改善に取り組まなくてはならない」とハーバード大学子供発育センターのジャック・ションコフは言う。脳神経科学の知見は教育、社会政策の見直しを迫り、今までの早期教育一本やりは見直される事になるだろう。

緊張の連続
バーガラが南ロスアンゼルスのミドルスクール時代、学校が1週間も閉鎖される事があった。警察が学校に警察犬と共に乗り込んで来て、金属探知機で生徒の体を検査した。この間、廊下での移動どころか、学外に出ることも困難であった。

ある日、バーガラの妹ベネッサ16歳が運動場で友達といると、5人の少女がやって来て暴行を始め、友達は出血する怪我をした。襲撃の理由は、彼女の友達が生意気であると言うだけであった。あの頃、学校の壊れた窓は、人の出入り口にもなっていた。近所のギャングが放課後学校に来て、子供が来るのを待ち受けるとベネッサは言う。

「学校も安全ではない。学校の近くで銃撃が発生した時、全生徒は体育館に移ったが、一人の男が銃を持ちながら学校を横切った」とベネッサは言う。


怠ける2人の生徒を取り押さえる。2006年3月7日、ロスアンゼルス、サンティー高校で。

ベネッサとステファニーと兄は、両親が縫製工場で働いたお金で買った、小さな家に住んで居る。近所は4つのギャンググループが争う危険な場所であったが、学校には歩いて通うことが出来た。

2013年にバーガラは、ヤングの研究に被験者として参加する事になる。この実験にバーガラ自信も興味が湧き、研究のインターンとして働くことにした。彼女の住む町では43%の家族が貧困ライン(4人家族で年収240万円)以下の生活をしていたので、その人たちの中から実験に協力してくれる人を探す役割を買って出た。

バーガラはヤングの所で働く以前から、人の自分達に向ける視線に不可解を感じたが、近所の人たちの脳MRI写真を見て、その意味が分かった。

貧困家庭の子供は、生まれながらにして強いストレスを受けるから、脳の構造に変化が生じていたのだ。バーガラは、人が撃たれた現場を見た事はないが、弾丸が寝室をかすめたことが数回あった。「日常暴力下にあると、体が暴力に反応してしまう」とヤングは言う。このような環境下では、ストレスホルモンが過度に分泌される事になる。

人は銃口を向けられると、コルチゾルやエピネフリンと呼ばれるホルモンを分泌する。神経伝達物質であるノルエピネフィリンやアドレナリンやドーパミンも海馬で分泌され、呼吸、心拍が亢進する。銃口を向けられるとは、最早ストレスを超えているから、33%がPTSDを発症するとロンドンのキングズカレッジは報告している。
毎日犯罪を目撃し、人が何時でも殴りかかる環境では、ストレスホルモンの過剰分泌で脳の健全な成長は期待出来ない。

ヤングの研究では、影響は既に赤子の脳に始まっている。ウィスコンシンーマディソン大学が行った調査では、生後5か月の赤ちゃんで、その前頭、頭頂の灰白質の成長が劣っていた。

優生学の始まり
「灰白質が薄く、表面積が狭いことと、脳に問題が発生する事は別である。この手の報告は人種差別を助長する」とションコフは反論する。「これは、新しい優生学の出現で好ましくない」とコネチカット大学助教授マシュー・ヒューイ氏も言う。ミシガン大学貧困センターは、貧困下でも平均より飛びぬけて優れた成績を残す人もいると報告している。

2014年の国勢調査では、国民の14.8%が貧困層であった。その内訳は、26.2%が黒人、23.6%がラテン系、白人は10.1%、アジア系は12%と、人種的特徴が見られる。黒人では、貧困が脳の発達に影響し、それが認識力低下を導くと言う悪循環にはまっているのだろうと、ルーイスビル大学のカーソン・バード助教授は言う。

もちろん、黒人社会に生れたことだけが脳発達に影響するわけではない。差別、教師の偏見、栄養不良、財源不足の学校等も原因している。


長い列を作って貧困地区の生徒が金属探知機で検査される。

研究を発表した人たちも、新聞があまりにも単純化している事を認めている。
「研究は相互関係を発表しただけなのに、報道では因果関係に変化している。両親の所得から子供の脳を予測出来ないし、脳は運命ではない」とコロンビア大学神経科学者のキンベリー・ノーブル氏は言う。「両親の収入は、脳に影響を与える一つの要素であって、全てではない」とションコフは言う。

貧困が必ずしも虐待、暴力につながる分けではない。荒廃した社会に育った子供でも、親が子供を守り、教師が援助し、近所も協力すれば十分健康な脳に成長できる。

「子供たちの豊な脳の成長は、ストレスを抑え、貧困に立ち向かう勇気が与えられるかどうかにかかっている。脳は常に成長するから、遅すぎる事はない」とシャンコフは言う。脳は可塑性に富み、赤子や子供の時それが最大であるが、その後でもゼロになることはない。 15歳から30歳の間に、2回目の可塑性が増す時期があるから、この時期に適切に指導することにより脳の発達障害を未然に防げる。

2013年、ニューヨーク大学神経科学のクランシー・ブレアーは、貧困家庭の子供では、ストレス・ホルモンのコルチゾルのレベルが大変高くなっていると報告している。以前、喫煙、ソフトドリンク、ハンバーガーなどの健康に及ぼす害についての報告があり、以来、政府は関係企業の規制に乗り出した。同じように、ブレアーの研究が法律の作成を促し、今後問題解決に向けての、訴訟に発展する可能性がある。

幸運

バーガラがインターンを終了して2年経った2015年、大学進学適性試験を受け、3.8ポイントと言うクラスの最高得点を残した。現在は奨学金を得て、サン・ジョセ州立大学で生物医学工学を勉強している。

彼女の背景を知る学友は、「凄いな。どうやって困難を克服したの」と聞いてくる。克服理由の一つに、彼女の家がある。家には素晴らしい庭があり、そこにはピンク、赤、黄色のバラが咲き乱れている。居間の壁はシミ一つないピンクの壁で、彼女の妹の記念写真が掛けられている。テレビの周りには、色鮮やかなパンダ、亀、ライオンの家族、自由の女神の置物が置かれている。

バーガラの寝室は、2人の姉妹と一人の甥で共有していて狭かったが、バーガラは不平は言わない。それどころか、美味しい家庭豚肉料理、ポテトと人参のタコスを思い出す。両親は縫製工場で昇進して、組み立てラインの責任者までなった。今年でいよいよ家のローンを支払い終えた。彼女は両親に秘密を隠すことなく話しているし、両親も子供には悪い友達について行かないように指導している。

「貧困と言うストレスが、子供の生活ばかりか、脳の成長にも影響を与え、それが生涯影響を与える事実を学んだ」と彼女は言う。



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