恐怖反応の冷却


神経症とは脳が恐怖で興奮状態になっている病気と言っても良いでしょう。
健康な人の脳では恐怖の安全スイッチがあって、恐怖が襲う事があってもそれが生活全体を破壊しないように、安全スイッチが働くようになっている。だから人は神経症にまで発展せず無事に一生を全うするが、神経症者の脳では安全スイッチ不良で脳全体が恐怖に乗っ取られてしまう。

ちょっとした恐怖で脳が過剰反応し、恐怖が恐怖を呼び、暴走が止まらない。焦った神経症者は解決方法を探すが、この努力が更に事態を悪化させる。こうなると神経症者は蟻地獄に放り込まれたと同様になり、そこから出る事が出来なくなる。

先日も神経症者から問い合わせがあり、”神経症を完治したい”と言う。完治とは症状の根こそぎ除去を意味していて、それは無理だ。強迫状態で治療行為をすると、恐怖のレベルは上がることがあっても下がる事はないからだ。

しかしここに僅かながら、健康に戻るチャンスがある。

僅かなチャンスとは、神経症治療行為の絶対停止です。
簡明であるが、神経症者には実行が大変難しい。恐怖に煽られた神経症者は、直ちに症状を解決しなければ自分の人生はないと追い込まれている。このように崖っぷちに立たされると、人は最早何を言われても聞く耳を持たない。

しかし、斎藤は、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、断固、神経症治療行為を停止した。30年の無駄があったからこそ出来たともいえるが、大半の人はそれが出来ないで神経症のまま一生を終えることを考えると、良くぞやったと今は思う。

断崖絶壁を背にして、一切の神経症治療努力を放棄したら何が起こったか。
先ず意識の分裂が止んだ。それまでは、不安が起きそうになると自分の心の向く方向を確認して調整していたが、心を一々確認する事がなくなったためか、意識が分裂しなくなった。心に異常な力が加わらないから、不安のレベルが潮を引くように急速に下がって行った。今までなら10分置きにフラッシュバックが起きていたのが、一日に一回、一週間に一回と減って行き、気が付いたら殆ど消えていた。

こうなると人に会っても印象が悪いはずがない。今までなら人と会話している最中に自分の心の方向を確認して、会話の流れに淀みが生じ、不自然さを相手に与えていたはずである。改善は会話ばかりでなく、生活全般に及び全てが生き生きして来た。

元来私はまめな性格で、女性がいなくても、洗濯、掃除、炊事はまめにやるほうで、日曜なんかは溜まった雑用をどんどん処理した。
私は雑用が神経症を治したと今まで考えていたが、実は神経症治療の停止をしたから、自然に体が動き始めたと言うのが正しい。それが証拠にフラッシュバックに陥った時に、意図的な雑用で失敗している。フラッシュバックから抜ける目的で雑用を開始すると、雑用に対する強烈な疑いが浮上し、雑用が急停止している。
(フラッシュバックとは一時的に神経症に戻る現象)

で、どうしてフラッシュバックから抜け出たか。
例に漏れず、斎藤も神経症で落ち込むと天井を眺めて途方に暮れる。しかし、このままじっとしていてもしょうがない、そろそろ夕飯だと立ち上がったその瞬間が、後から考えるとフラッシュバックを抜ける瞬間であった。

やはり真の雑用には、神経症を治す目的が入ってはならないのです。
神経症を治す努力さえしなければ、敢えて雑用と言わなくても自然に体が動く。雑用とは意図して動くものではなく、健康な人間の自然な営みと考えてよい。
自然な雑用では、人は物事を必要だけやって不必要にはやらない。また、雑用の間は別の事を考えているから、判断がつかなかった物事の解を発見したりする。



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