整合性の問題


無為療法には整合性がないと言ったのは、HNの掲示板のAであった。何をバカな事を言っているのだと思ったが、なんと一休さんが同じことを言うので驚いた。

整合性がないとは、無為療法の説明が、数学的に1+1=2になってないと言うことであろう。納得の行く説明をしてもらえれば、自分達の神経症も治ると言いたいらしい。その1+1=2を求めて、今まで30年も無駄な人生をして来たのに、ここへ来て又1+1=2を求める。これが神経症であり、狂いであり、精神病であるのだ。神経症とは強迫行為であり、生涯同じことを繰り返す。今度こそ停止すると心に誓っても、その停止の努力が、更なる強迫行為を生んでしまうと言う、果てしもない病気の連鎖なのです。

何故、整合性を求めてはならないのか。それは、神経症脳が求める整合性は狂いの整合性であり、神経症脳が作り出した幻想に過ぎないからです。健康な人は、整合性なんか求めないし、求めなくても生活の整合性は保たれている。整合性を求める人間が、何時までも、まともな生活が出来ないのに対して、整合性を求めない人間が、このように順調な生活をしている事実を見るべきだ。

例えば、家の中の雑用が神経症を治す突破口だとする。確かに動きが活発になれば、それは神経症の外側の世界だ。だから家の中の雑用をすると考えるのが、神経症者の求める整合性であり、整合性を求めつつ神経症の世界に入って行く。

”動き”は整合性ある解答ではなく、整合性を求めない心の出発点である。家の中の雑用に拘る姿勢は外部から見ると異常であり、普通、人はそのような行動をしていない。限定していない動きこそが無為療法の出発点であり、地球上の動物は、全てそのように動いている。

グズグズ言わず、毎日掲示板を覗き込む生活を止めて、立ち上がり、目の前の何かを開始するのです。動物は全て何かをするように出来ている。人間も、身近な何かをせずして生活は成り立たない。その単純な動きの中に、神経症を治す全てが存在していたのを、斎藤は23年間かけて証明した。

整合性を見つけたから、神経症治癒が達成されたのでなく、整合性を求めなかったから、神経症が治ったのです。



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