流浪する心とワーキングメモリー

脳の科学を翻訳していると、しばしばワーキングメモリーの言葉が出てくる。
ワーキングメモリーとは心の作業空間であり、この空間が広いほど多種の仕事をこなすことが出来ます。短期の自動記憶装置であり、我々は意図しなくても一定の量の記憶をしていて、前後の文脈を保つことが出来るわけです。コンピューターで言えばメモリーで、ハードディスクではない。このメモリーの量が大きいとコンピューターも作動が早く、作業していても気持ちが良い。

私は、神経症者ではこのワーキングメモリーが不足しているのではないかと推測します。もちろん生まれながらにして不足しているのではなく、彼らの脳から出る強迫観念がワーキングメモリーを消費して、不足状態にしているのです。

神経症者は極端に動くのを嫌う。何とか立ち上がっても5分と経たない内に強迫観念に妨害されて立ち往生する。ひたすら考え続け強迫観念との対話に心のエネルギーの大半を消費するため、彼らの生活はほとんど停止してしまう。

健康な人では強迫観念が存在しないから、ワーキングメモリーに十分余裕があり、同時に多数の作業が可能です。つい最近の研究報告によると、多数の作業を可能にしているのはワーキングメモリーであるとしている。

また、座禅をすると気がつきますが、我々の心は片時も休まず動き回っているのが分かる。座禅は深くゆっくりと複式呼吸をしつつ、その呼吸を数えるのが基本です。多くの人はこの呼吸を数える先に無が存在すると思いますが、実は心は無にならない。我々の心は常に何かを考え続けて、留まるところを知らない。これは長い進化の結果、心がそのように動き回った方が生存に適していたためでしょう。この流浪する心の源泉も、現代の科学はワーキングメモリーであるとしている。

流浪する心のおかげで、心は周囲を絶えず見回し気配の変化を察知することも出来るし、うっかり忘れていたことを思い出したりもする。もう一つ忘れてはならないのは、流浪する心がインスピレーションの源泉であることです。流浪するからこそ決まりきった仕事から開放され、無意識と会話をする。無意識は心の宝庫であり、意識に存在する情報以外のすべてがこの中に隠され、熟成されています。

この流浪する心が無意識と対話するおかげで、何か解決に行き詰った時に無理して解答をひねり出す必要がないわけです。ひとまずその問題を先延ばしにして、別の作業に入る。すると、ふと思い出したとき、意外にも問題が整理されているのに気づく。無意識と意識の絶妙な共同作業の結果であり、我々の脳の素晴らしさを感じる。だから、神経症者がよく言う意識の集中は嘘であり、意図的集中はむしろ心を縛り付けて自由な発想の源泉を窒息させてしまう。

では、なぜ神経症者では流浪する心が消滅しているのであろうか。人間でも動物でも何か危険が迫ると、息を潜めて注意を集中させる。今まで自由に動いていた心は停止し、注意は危険物に向けられる。神経症の不安はこの動物の危険回避行動に近いのではないかと推測するわけです。普通は危険が去れば心は直ぐ流浪を開始しますが、神経症の場合、不安は決して去ることはない。絶えず我々を苦しめ、ワーキングメモリーと心のエネルギーを消費尽くしてしまう。ワーキングメモリーを十分使えない神経症者は作業の種類も限定され、気も利かない。彼らは動きを拒否するようになり、一日中強迫観念との対話に明け暮れてしまう。

ワーキングメモリーと神経症の関係は今後さらに研究が必要ですが、斎藤の経験から、神経症が治った状態とはワーキングメモリーが解放された状態と分かった。だから斎藤は躊躇することなく、幾つもの作業に取り組む。多数の作業を進める脳では作業同士が補完しあい、間違いが直ぐ見つかり、機転が利く。

さあ、皆さんワーキングメモリーを取り戻してマルチタスクの人間になりませんか。インチキホームページに行き今日も読みまくると人生は崩壊します。



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