絶対矛盾的自己同一

私は鈴木の病院に入院しているとき、この西田幾多郎の言葉である”絶対矛盾的自己同一”を初めて知った。その頃からこの言葉になにか魅力を感じていたのであるが、神経症が治って見ると、神経症が治る瞬間、あるいは対人恐怖の外側に出る瞬間が、この言葉と一緒なのが分かって来た。

西田関係の本を読んでみて、哲学的考察を理解しようと試みるが、どうも私には分からない。私には哲学とは一体何なのかの疑問が出てきて止まらない。しかし西田がこの言葉を発したときに、哲学の思考の中で禅の悟りに近いものを感じたに違いない。

禅の悟り、対人恐怖を通過して健康世界に入る瞬間が、この絶対矛盾的自己同一に一致するのだ。
猛烈な対人恐怖で恐怖の連続であるはずの毎日が、日常の雑務に追われて、そのついでに人に会って話をしているときに、後で気がついてみたら、そのまま経過していたがこれに当たる。対人恐怖と言う絶対恐怖が自分の横にあるにも関わらず、恐怖を意識せず、さりとて自然体で話した会話に喜ぶでもなく、互いに矛盾をしながら、尚且つ自己同一が保たれて、時間が経ち次の場面に進んでいる。

ここの所を鈴木大拙が次のように言っている。
「中道とは、中間も両辺もなきところにある。対象世界に束縛されるときがその一辺である。自己に惑乱するときが他の一辺である。この両辺の存在せぬとき、中間はあり得ず、それが中道なのだ」
この場合中道とは神経症の治りであり、禅の悟りである。対象世界に束縛が雑用へのこだわりであり、神経症治癒へのこだわりである。自己に惑乱は対人恐怖の症状である。対人恐怖の治りとは、この両辺に属さない絶対矛盾的自己同一の世界なのです。
この幽玄の境地は努力や知識で到達できない。ただ単に毎日の雑用に明け暮れているとき、ある日に自分は神経症の外側にいたのを発見するのだ。そのとき喜び感動はなく、もしあったとしたら、貴方は神経症治りの蜃気楼を見ていたに過ぎない。



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