幼児虐待が脳に及ぼす影響

2002年9月24日
 
ザッカリー君が2歳の頃、左の目の下にタバコを押しつけた火傷が発見されて、病院の緊急処置室に運び込まれた。6ヶ月後今度は右前腕の火傷で病院に運び込まれた。幼児虐待が疑われて、政府は彼を家から引き取る事を決定して、里親を探したが、3ヶ所転々として2000年の7月にやっと里親が現れた。

3歳になっていたが、既にザッカリー君は精神的ダメージを負っていて、表現する能力は2歳の幼児にも満たなかった。目を合わそうとはせず、部屋の隅でもじもじしていて、泣いて不満を訴えた。しかしザッカリー君を引きうけた家族は、暖かい愛情を差し伸べ、更に充分な地域サービスを受け、彼は新しい人生を歩む事になった。「今日は楽しく学校でやっているようです」とマールボロに住む里親であるキャスリン・リゾッティさんは言う。

今までは、臨床精神科医は幼児虐待、無視が発達期にある幼児の脳に、どのような影響があるかは想像するしか無かった。しかし、最近の10年、その方面の神経科学的研究は大いに前進し、このような精神的衝撃が子供の脳にどのような影響、変化を及ぼすか、詳しい部分にまで分かるようになった。

これらの研究結果によると、肉体的、性的虐待、無視は発達期の脳に構造的にも化学的にも重大な影響を与える事が分かった。児童福祉施設に入っている子供達の4分の3に行動的、学習的問題が生じているのが判明した。ただ幸いにも、この脳の変化が必ずしも不可逆的で無いのも分かった。実際、ザッカリー君にも見られるように、適宜な介護、精神的医療を施す事により、脳の回路及び心理発達を正常に戻せるのが分かった。社会援護部門の長官であるヘリー・スペンスさんは「神経科学の発達のお蔭で、我々の仕事がはっきりした。虐待を受けた子供は脳に障害を受けており、単に保護するだけでは充分でありません。彼等に、充分な愛を感じさせる場所を提供しないとならない。それが傷ついた心理を癒す全てでしょう」と言う。

ハーバード大学の精神科教授であり、ベルモントにあるマックリーン病院の生物精神医学研究室主任であるマーチン・チーチャー氏はこの分野の研究では先頭にいる。1993年に出版された雑誌ー神経精神医学と臨床神経科学ーの中で彼は虐待が引き起こす脳波異常を報告した。

ある子供若者専門の精神病院の入院記録を調べて、虐待の経験を持つ患者には54%の割合で脳波異常が見つかった。それに対して虐待を経験していないグループでは脳波異常は27%の割合であった。特に肉体的、性的虐待を受けた患者ではその割合が72%にも上昇していた。

「一般的に、虐待の度合いが激しい程、脳に加わる衝撃も大きい。被害者と加害者の関係も重要であり、加害者が家族である場合は、神父とかベイビイシッターによるものよりダメージが大きい」とチーチャー氏は言う。

研究によると、虐待は合理的思考をつかさどる脳皮質、あるいは記憶と感情の中枢である海馬にダメージを与える。両分野は学習にも重要な役割をしている。

1998年に発表されたチーチャー等による論文によると、15人の重大な虐待を受けた子供と15人の健康なボランティアに対してブレインスキャンを実施し調べた。結果は、虐待グループの左脳皮質に成長停滞が見られた。又、イェール大学のダグラス・ブレムナー氏とカリフォルニア大学サンディエゴのマリー・スタイン氏の研究では、虐待被害者では左の海馬が健康な人に比べて小さいと報告している。

虐待は海馬ばかりでなく、感情の中心である扁桃体をも重大な影響を与える。扁桃体とは、例えば急に曲がってきた車を避ける動作を命令するのが扁桃体である。しかし虐待が重なると、危険が迫っているわけでもないのに、扁桃体は危険を知らせるシグナルを出すようになる。

「扁桃体に問題が生じている虐待児童では、ちょっとした事で恐怖を感じて後ずさりをする」とヒューストンにある子供トロウマ研究所(非営利団体)の神経科学者であるブルース・ペリー氏は言う。

発達期の脳に対する強い精神的衝撃は、脳の化学物質の分泌にも影響を与える。例えば、ストレスを調節するホルモンであるコルチゾルや重要な神経伝達物質であるエピネフィリン、ドーパミン、セロトニン等に変化が生じる。

これら物質のバランスに問題が生じると、障害が起きる。例えば、虐待はセロトニンのレベルを下げる効果があるが、それは鬱や衝動的攻撃の原因になる。

オールストンにあるトロウマセンターで医学部長をしていて国際的にもトロウマの権威でもある、ベッセル・バンデルコルク氏は、虐待で生じた神経生物学的変化を治療する研究をしている。

最近、アメリカにある12の虐待治療センターの1つが、連邦政府が主催する虐待児童治療プログラムの援助金を受ける決定をした。このトロウマセンターは、北部ニューイングランドの学校、地域社会に最新式の虐待児童の治療を指導している。

バンデルコルク氏はプロザックのようなSSRIと呼ばれる抗鬱剤が、虐待児の治療に有効である事を認める。しかし、薬は部分的に効果があるだけだとも言う。「虐待と言うマイナスの経験に対して、プラスの経験を子供にさせる事が重要。例えば、その子供に対して『悲しい経験をしたね。おじさんもとても悲しんでいる』と言うだけで、衝撃を受けた脳を回復させる事が出来る」とバンデルコルク氏は言う。

トロウマセンターで児童福祉の責任者であるアレキサンダー・クック氏は、一対一で行われる心理療法もプラスの神経生物学的影響を脳に与えると強調する。

例えば、次ぎの例を挙げる。クック氏はサリーと言う名の5歳の少女の治療を開始した。彼女の父は彼女を性的虐待をした疑いで逮捕され、一家はマサチューセッツに引越しした。サリーちゃんは気分の変化が激しく癇癪を起こしたり、1日3時間も泣いている事があった。

「サリーちゃんの受けた虐待、裁判で父親が彼女に性的虐待をしたと自分で証言したショック、引越し等が彼女の脳と体の神経伝達物質のバランスを変化させたのでは、と私は推論します。彼女の扁桃体はシグナルを出しっぱなしになったのです」とクック氏は言う。

クック氏はサリーちゃんの情緒を安定させる為に、癇癪を上手く爆発させる方法を教えてやった。例えば、クック氏の事務所のテーブルの回りを走り回る時には、そのままやらせた。そして、サリーちゃんにに紙の上にぬたくるような、めちゃめちゃな絵を書かせた。毎週面接をしながら4ヶ月経過した後、サリーちゃんは大分落ち着きを取り戻し、彼女の脳は安定から記憶処理向上へと移った。

サリーちゃんはその後激しい心の動揺を見せないから、彼女の脳回路は大分修復したとクック氏は見ている。

「動物実験では、新しい経験は新しい脳細胞を作り出すと報告がある。しかし、人間では未だ分かっていない」とボストン医科大学の小児精神科医であるグレン・サックス氏は言う。

残念だが、ザッカリー君やサリーちゃんのように特別な治療を受けるのは希であり、100万人の子供が毎年虐待を受けているにも関わらず、その10%以下の子供しか適当な治療を受けていないと、アメリカ健康福祉省が推測している。


「新しい科学が勧める治療方と、現在行われている治療法との間には大きなギャップがある」とブランデイス大学ヘラー分校の学長であるジャック・ションコフ氏は言う。

しかし、脳の生物学的変化は常に我々に可能性を与えてくれる。最近発表された論文では、従来の、脳の発達は3歳で終わると言う説をひっくり返した。急速な脳の発達は3歳くらいまでに終わるが、脳は大人になっても変化を続けることが証明されている。でも、虐待を受けてから治療を受けるまで時間が経つに従い、神経回路の修復は難しくなる。

「虐待を受けて大人になった人の脳は、壊れたコンピューターのハードドライブのように虫食い状態になっている」とグリーンフィールドにある、虐待かけ込み相談所の責任者であるストロング・オーク氏は言う。



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