2007年7月5日 |
去年の2月ある夕方、マサチューセッツ有料道路を車で走っている時にボトルに入っている水を飲んだ。うっかりボトルを引っつかんだ事は覚えているが数秒後、警官のフラッシュライトが顔を照らして目が覚めた。「今日はどれほど飲んだのですか」と彼は聞く。「1981年以来一滴も飲んでいません」と憤然と私は答えたが、彼には余り聞きなれた返事ではなかったであろう。 実際これは本当であり、だからこそマサチューセッツ有料道路を走っていた分けだが、実は私は20代の後半に入る頃には普通の人が一生かけて飲む分量以上飲んでいたし、マリワナも随分やっていた。間違い無くアル中であり薬物依存症であったが、周りに助けてもらって幸運にも禁酒に成功していた。警察に見つかった時は、丁度マサチューセッツのベルモントにあるマックリーン病院にfMRIで脳をスキャンする為に行く途中であった。目的は断酒開始25年後の私の脳がどうなっているか検査する為であった。 25年前には脳スキャンで検査は考えもしなかったことだが、その頃は専門家もアル中はモラルの欠如より病気であると認めるようになっていた。既に1950年にアメリカ医学協会(AMA)が病気と述べている。しかし、アル中はあらゆる面で病気と似ているがやはり違う。依存症に向かう過程は多分に自分の意志が関与しているように見える。治療法はカウンセリングと断酒会があるが、Alcoholics Anonymous(アメリカ版断酒会)は1935年に設立されたボランタリー組織で、その活動により数百万のアル中患者が回復している。 それでもアル中問題は難しく、断酒に成功する率はわずか20%だ。断酒会以外にも治療法はあるが、どれも成功率20%以上にはならない。麻薬中毒治療の成績も似たり寄ったりで、専門家は両者が大変似ていると言う。「悲しいのはこの10年この分野の治療が一向に進んでいない事だ。あらゆる癌の治療成績より悪い」とカリフォルニア大学サンディエゴのマーチン・ポーラス氏は言う。 所が最近これが変わる可能性が出て来た。過去10年間にアル中、麻薬中毒の原因がかなり分かり始め、20%の成功率を40%に上昇させる可能性が出て来た。fMRIsとPETスキャンを使い、脳のどの部分に問題が生じているのか、どの神経伝達物質がバランスを崩しているのかを調べた結果、薬物中毒が脳の記憶回路及び感情中枢に影響を与えているのが分って来た。「薬物依存症とは飲めば悪い結果を引き起こすと分っていながら止められない症状です」とアメリカ薬物依存症研究所のジョセフ・フラッセラ氏は言う。 大型獣に追われていた大昔を想像しても分るように、薬物依存症では生存が難しく、進化の段階でとっくに消滅していて良かったが、「薬物依存は文明発祥以来存在していたと思う。何故なら人間は気分を良くする物質を欲しがる動物だからでしょう」とアメリカ薬物依存症研究所のノラ・ボルコー氏は言う。 薬物依存の脳とは本来人間が生存するに必要な機能を利用している。我々の脳は神経専門家が言う所の"突出物"に注意が向くように出来ている。例えば脅威は典型的突出物であり、我々は脅威に注意を集中する。同様に食べ物とセックスも突出物であり、これらは我々の生存を保障するがその欲望には抗し難い。薬物依存症では薬物の刺激があると、脳の記憶システム、報酬回路、決断中枢、準備体制が全てオンになり、突出物に対する強い渇望が起きる。「生来、薬物依存症になり易い人もいるが、このように脳の基本的機能が動員されるので誰でも薬物依存になる可能性はある」とノラ・ボルコー氏は言う。 薬物ばかりでなく、ギャンブル、買い物、セックスまでもが依存症に発展する。ボルコーの研究グループは病的に食べて太る人達を調べて、彼等の脳では口、舌からの刺激を受ける脳の分野が過活性の状態になっているのを発見している。脳のこの部位が刺激されると、安全扉は開いて脳の快感センターがオンになってしまう。このように、人間では楽しみの対象は全て依存症を起す原因になり得る。 但し、我々の脳には分析を担当する高位の脳があり、そこでは起こり得る結果を判断し単なる喜び追求を拒否するから、誰でも依存症になるわけではない。脳スキャンでもこれをはっきり示している。ポーラスは、4週間のリハビリプログラムを受けているメタアンフェタミン中毒患者を調べた。患者の中でもリハビリを受けた後の最初の1年で再発する人達を見ると、認識力に劣化が見られ、新しい作業の完遂が難しかった。脳スキャンを取ると衝動的行動を規制する前頭前野皮質の動きが鈍かった。薬物がこの結果をもたらしたのか、あるいはこの傾向があるから薬物依存症になったのかを言うのは難しい。しかし認識力の欠如が彼等の中にだけある所をみると、生来の傾向である可能性が高い。驚いた事にポーラス氏は前もってスキャンを取れば80〜90%の確立で1年以内の再発を予想できると言う。 もう1つ専門家が注目するのは脳の中の報酬回路で、ここはドーパミンとその受容体が関連している。ドーパミン受容体の中でD3と呼ばれている受容体は、コカインやメタアンフェタミン、ニコチンの存在下でその数が増加する。増加すれば、より多くの薬物が神経細胞に入り神経細胞を活性化させる。「薬物の影響で受容体の密度が急激に増えると考えられています。だからD3の活動をブロックすれば薬物の作用を軽減できる分けです。今の所、D3が報酬回路の働きを元に戻す最も有力なターゲットになっています」とアメリカ薬物依存症研究所の化学療法研究員のフランク・ボッシ氏は言う。 高速の車を止めるには、アクセルペダルを放すのとブレーキペダルを踏む両方の操作が必要であるように、薬物依存を治すにもドーパミン受容体(アクセル)と脳の抑制回路(ブレーキ)の両方を使う。薬物依存者では脳のブレーキであるGABA(ガンマーアミノ酪酸)が上手く働いていない。薬物により脳が興奮している時に、それを適切にコントロールする回路が働いていなければ脳は暴走する。 ビガバトリンと言う、アメリカでは未だ販売が許可されていない抗癲癇薬があるが、これが効果的にガンマーアミノ酪酸のレベルを上げる。ガンマーアミノ酪酸は、脳の中で体の動作に関わる神経細胞の過活性を抑えるため、筋肉の収縮、けいれんを緩和させ癲癇発作を抑える。現在この考えに基づいて、オベーション製薬とキャタリスト製薬の二社がメタアンフェタミンとコカイン中毒への効果を調べている。動物実験ではビガバトリンがガンマーアミノ酪酸の分解を抑えていて、分解されないガンマーアミノ酪酸は神経細胞に蓄積されている。もしビガバトリンが有効ならば、薬物を含む全ての依存症の治療に期待が持てる。 もう1つ専門家が注目しているターゲットにストレスネットワークがある。動物実験でも、ストレスを受けたネズミが麻薬を欲しがるのが分っている。ネズミも新しい環境、慣れないネズミとの同居、手順の頻繁な変化等が麻薬に向かわせていた。 高等な人間でもストレスが脳の思考回路に影響し、行動の後に起きる結果を予測する思考に問題を起す。例えば、貴方が一瞬何かにひるんだ時を思い出してもらいたい。注意は全て脅威に集中し、それ以外のものは覚えていない。「熟考を要する事態なのに、前頭前野皮質がストレスでダウンしているのです。薬物依存者がその状態です」とボッシは言う。 男性及び女性ホルモンも依存症発症に関わっている。女性では生理の後半にニコチン刺激に脆弱になる。生理の後半では卵胞から卵子が生産され、黄体ホルモン(progesterone) や発情ホルモン(estrogen)が分泌される。「脳の報酬回路はこの次期に最も敏感になりやすい」とボルコーは言う。 ホルモン以外にも、男性と女性の生物学的違いがどの程度依存症発症に影響しているか研究されている。例えばアルコール依存症と女性の関係であるが、今まで女性は男性に比べてアルコール依存症になるスピードが早いのが分っている。原因としてアルコールの代謝の違いがあげられていて、胃の表面膜にはアルコール脱水素酵素と言うアルコールを分解する酵素があるが、男性の方が女性よりこの酵素を多い。又女性では体に占める水分の量が男性より少ない。これらが発情ホルモンと相まってアルコールの血中濃度を上げる働きをする。故に女性は男性より同じ分量のアルコールを飲んでもより強い効果が現れる。だから少ない分量で強い酔いを経験して満足する女性もいれば、強い酔いが更に飲みたい欲求引き起こし、アル中への道に走る女性もいる。 しかし研究で注目されるのは消化器ではなく脳である。1985年にボルコーはPETスキャンを使って最初に慢性麻薬常用者の脳を調べた。PETスキャンでは脳内の血流、ドーパミンのレベル、ブドウ糖代謝のレベルが観察出来る。麻薬常用者が麻薬を断ち切った1年後にもう一度脳のPETスキャンをした所、脳が麻薬を常用する前に戻っているように見えたが、但しそこまでであった。 「薬物依存による脳の変化は単純ではなく、薬物を断ち切った2年後でも薬物による脳の変化は残っている。果たして治療は脳を正常に戻せるか、戻しても別の脳に戻ってしまうのでは無いか」と薬物依存症研究所のフラッセラは問う。メタアンフェタミン中毒の患者では薬物停止14ヶ月後でも新しい学習に問題が生じている。 もし麻薬常用者が学習に困難を覚えるなら、リハビリプログラムにも限界がある。特に薬物を停止した後の数週間から数ヶ月に問題が発生しやすい。「療法とは学ぶ事であるが、中毒者にとって最も困難な時期に教え込もうとしている」とボッシは指摘する。 リハビリには最低90日間を要し、断酒会でも最初の90日間は毎日1回、会合に参加する事を求めている。如何に脳が麻薬中毒から回復するのに時間がかかるかを示している。薬物依存症の患者は90日間のリハビリの過程で、前頭前野皮質の判断能力と分析能力を次第に回復するが、イェール大学の研究者はそれを休眠効果(sleeper effect)と言っている。 専門家は今、前頭前野皮質の回路を正常に戻す薬物の開発に全力を向けている。このような物質が見つかれば、扁桃体からの誘惑を断ち切る力を患者に与えるであろう。扁桃体は脳の中でもより原始的な脳であり、コカインのような白い粉を見た時や、飲み仲間と一緒にいる時に欲求を触発する器官である。麻薬を再欲求する姿はパブロフの犬の条件反射に大変良く似ている。私がマックリーン病院に行くのもこの現象があるかないか、スキャンで明らかにするためであった。 私の若い頃は酒が悪いと分っていても飲んだものだ。特に飲み仲間と一緒にいる時、グラスや瓶の音、ビールやワインの臭いがすると殆ど抵抗できなかった。マックリーン病院のスキャン装置には、映像を撮っている最中に被験者の鼻孔に酒、ビールの臭いを漂わせる装置が付いている。このような刺激があると断酒25年でも脳の関係部位がパッと点灯するに違い無い。 私は研究所にあるアルコール品目から黒ビールを選んだ。これこそが私が最も愛したビールである。しかし実際25年以上酒を飲んだ事が無かったから、黒ビールの匂いに反応するかどうかは興味がある所であった。研究所のスタッフとこの実験が引き起こすであろう再発の可能性をしっかり検討した後に実験台に乗った。もしこの実験で強烈な飲酒欲求が起きても、今は対処の仕方を知っているし助けてくれる人も知っているから大丈夫だ。 酒の誘惑を緩和させるとは、中毒患者が脳の認識能力を向上させて、扁桃体や他の原始的脳に影響を及ぼす事であるから感覚が鈍磨するのとは違う。「あくまでも扁桃体の活動を弱める事ではなくて、前頭前野皮質の能力を高めることです」とボッシは言う。この考えは又、恐怖症の治療にも有効であるのが分かって来た。恐怖症も薬物依存症も同じ脳の高次機能(前頭前野皮質)と低次機能(扁桃体)の戦いである。仮想現実のガラスで作られたエレベーターに乗った被験者に抗生物質のD−サイクロセリンを飲ませると、飲まなかった人に比べて恐怖を上手く処理出来る実験があったが、「D−サイクロセリンがこれほど効くとは思わなかった」とボッシは言う。 上の実験結果から、専門家は依存症の治癒も有り得ると考え始めた。今でも、薬物依存症患者の回復は何処まで言っても回復であり、治癒はないと考えられている。だが、完全治癒もあながち否定できないと言うのは、タバコ喫煙者で脳の中の島(insula)と呼ばれる部分の機能に傷害が起きたケースで、それ以後ニコチンを欲しがらなかったからだ。島(insula)とは感情と直感に関わる部位である。 それでは島を抑制すれば良いかと言うとそれは違う。島は脳の他の組織に比べて危険、脅威を事前に予測する重要な機能を持っているから、この部分が損なわれると生命に危険が及ぶ。脳の各部分は互いにネットワークを構成しているから、一部だけ抑制して良い結果を得るとは行かないようである。 「依存症とは体の病的状態であり、医療は健康に戻すのが職務だから治せると考えないといけない。でなければ永久にこの問題は解決しない」とボルコー氏は言う。でも彼女は直ぐ続けて、単に新しい方法を考えるだけでは解決は難しいと言う。依存症が及ぼす脳の影響は複雑であり、彼等が一見治ったように見えても常に再発の危険が付きまとうからだ。 私の人体実験に戻ると、ビールの香りに私の脳は殆ど反応しなかった。「良かったですね。ビールに対する貴方の脳の感応性は殆ど消えています」とハーバードメディカルスクールのスコット・ルーカス氏は言う。 それは私の経験とも一致している。誰かが横でビールを注文しても飲酒の誘惑に負けることは無い。でも自分で実際コップにビールをどくどくと注ぐような危険な遊びはよそう。過去の他の多くの失敗例から見ても、それだけは絶対やってはいけないのだ。 脳科学ニュース・インデックスへ |