失感情症

2015年8月19日

ここにカレブ(仮名)と言う感情を感じない男性がいる。彼は失感情症と言う特殊な病気に悩んでいて次のように述べる。

「誰でも最初に子供が生まれた時は感動するものでしょう。しかし私にはその感情が全然なかった。結婚式の時も、自分が主人公のように思えず、何か他人事であり、機械的に進行していて、裏で動く人の姿が見えてしまうありさまだった。丁度、劇場で聴衆はその演劇に心を奪われているのに、自分だけが舞台の裏で演出を助けている黒子さんを見ているようなものだ。教会の通路を妻と歩いていても、足は少し重く感じたが、喜びとか幸せなど全く感じられなかった」と彼は言う。

私はこのカレブにインターネット上の失感情症を討議するグループを通して知ることになった。
感情盲目症はまだ現在解明されていないが、研究が進むと、拒食症、統合失調症、慢性の痛み、過敏性腸症候群等の病気の解明につながるかも知れない。同時に、失感情症は、我々に改めて感情とは何かを考える機会を与えてくれる。

感情の殻
失感情症を理解するにはロシア人形のマトリョーシカが良いであろう。この人形は、一番外側の大きな人形から次第に小さな人形に変わって行くが、一番奥の人形が感情に発展する体の反応と考えれば良い。、好きな人に会えば心臓が時めくし、怒りを感じれば胃がむかつく。この反応を一番下の人形が発する。
脳は上に重なる人形で、芯の人形から発せられた体の反応に価値判断を与えて感情に発展させる。この感情には強弱、良し悪し、その他もろもろの要素が絡みあい、最後に言葉を与える。

1972年に始めて失感情症が論議された時、専門家は、問題は言葉の欠落にあるのではないかと考えた。失感情症の人は、普通の人と同じように感じているが、それを言葉に表せないだけではないかと。その原因として、左右の脳半球の連絡の不全が挙げられる。感情の中枢である右脳から言葉の中枢の左脳に情報が伝わらなければ言葉に表せない。

アーヘン大学のカタリーナ・ゲーリッチもこれに賛同する。癲癇手術をして脳梁を切断すると患者の癲癇発作は軽減するが感情を表わせなくなる。しかし、ゲーリッチによる調査では、失感情症の人の一部では、脳梁の連結が逆に太くなっていると言う。連結が濃密過ぎてノイズが発生し、左右の脳の会話を妨害しているのではないかと言う。
今日では、失感情症にも沢山のタイプがあるのが分かって来た。感情があってもそれを表現できない人もいるし、カレブのように、感情そのものがないタイプもある。

アリゾナ大学のリチャード・レーンは、失感情症を視野皮質に障害を受けて目が見えなくなった人と比べる。目には何ら障害がないが、脳に障害があり物が見えない。同じように、失感情症は、感情を処理する神経回路に多分障害があり、感情を作成できないのだろう。ロシアのマトリョーシカ人形で言えば、一番小さな人形からは感情が発せられているが、2番目の人形の段階で連結が切れている。
ゲーリッチがfMRIスキャンを使って調べると、失感情症の人では自意識に関連する帯状皮質の灰白質が薄かった。

オランダ・グローニンゲン大学のアンドレ・アルマンは、注意を担当する脳に問題があると見る。彼の実験によると、患者に感情を刺激する写真を見せても、まるきり反応しない患者がいた。
「最初は原因は何か別の所にあるのではと考えたのですが、カレブの意見が正しいのであろう」とアルマンは言う。カレブはこの現象を意識の切断と言う。意識が切断されているために感情が発生しないのだ。

ある日、カレブは学校で学生劇の準備をしていた。良い音響効果を出すように1週間も取り組んでいたが、上手く行かなかった。ついに彼の上役が我慢ならなくなって癇癪を落とした。「この時の私の反応はおかしなもので、何か異常な事が起きているのを体では感じているが、他人事であり、間もなくこの出来事は忘れてしまった。事態が緊迫していればいるほど冷静になり、分析的になるのは困ったものだ」とカレブは言う。 
失感情症にも僅かながら利点もある。医者とか手術が怖くないのだ。「どんな苦痛も私には耐えられる。何故なら酷い経験をしても直ぐ忘れてしまうからです」と彼は言う。

神経回路のショート
確かに失感情症にも多少の利点もあるが、失感情症は統合失調症とか摂食障害、自閉症に関連していることもあるから要注意だ。

ロンドン・キングズ・カレッジのジェフリー・バードによると、自閉症で社交性に問題がある人は失感情症も併発している。しかし他の半分の人たちは他人を認識することも出来るし、失感情症でもない。
「ある自閉症の人が介護の仕事をしたいと言うと、貴方は共感できないから仕事を回せないと言われた。多くの自閉症では感情には問題ないのですよ」とジェフリー・バードは言う。
それと失感情症の人には慢性痛や過敏性腸症候群に悩む人が多い。レーンはその原因として、失感情症により脳回路に短絡が起きているためだろうと言う。普通は感情のおかげで、体から伝わる痛みを抑制することが出来るからだ。

「我々が感情豊かに生活すると、命令は前頭葉から下に向かって行くことになり、痛感覚を抑える役割をする」とレーンは説明する。感情で処理できないと、心は体から来る痛感覚にくぎ付けになり、痛感覚を増大させてしまう。「失感情症の人は、気持ちを他に向けられないために、体感覚が必要以上に増大する。これが彼等の慢性痛を作る原因でしょう」とゲーリッチは言う

「私には人が恋しいと言う感覚がない。長いこと人を見なくても、それは単に人を見ないだけであり、恋しいとか寂しいの感覚は湧かない。しかし自分の妻や子供に2,3日合わないと、体の方からプレッシャーがかかってくる」とカレブは言う

隠された怒り
カレブの場合は生まれた時からの症状と言うから、遺伝子に関連しているに違いない。しかし育ちや心的外傷も原因として考えられる。レーンの取り扱った患者に、パトリック・ダストと言う患者がいて、彼は次のように言う。
「ある晩、父が帰ると母との間に何時もの激しい言い争いが始まった。父は”お前ら銃で皆殺しにする”と言い始めたので、近所の家に逃げて警察を呼んだ」と話す。それから何十年も経つが、彼は両親に対する恐怖、怒りをを上手く処理出来ていない。これが原因で、体全体に痛みが走る線維筋痛症と失感情症になったのではと彼は疑っている。今は、レーンの指導の元、心のねじれを解消して、線維筋痛症の痛みは軽減している。

「私は猛烈な怒りでかたまっていたのに、それを押し殺していたのに気がつかなかった。これに気がついたのが、人生の最大の収穫です」とパトリック・ダストは言う。
カレブも認知行動療法の療法家のもとに通い、体から来る感覚を分析し、それを感情に結びつける努力をしている。妻の感情をも理解しようと努めているが、まだ学問的訓練の領域のようだ。
失感情症の人たち全てが、カレブのような決意と我慢を持ち合わせているわけではないし、家族も失感情症をよく理解しているわけではない。

「妻に私の問題を理解してもらうまでには大変時間がかかった。でも感情の起伏がない有難い側面がある。例えば子供が夜泣きをして、寝不足になっても、それが不和の原因になることはなかった。その代わり、私の妻に対する接し方には感情抜きの不自然さがある」と言う。

彼は私が今までインタビューした中でも最も考え深く、自分の限度を知り抜いた人であるのは間違いない。カレブ自身も失感情症は決して人に不親切とか自己本位になるのとは違うと念を押す。「中々信じてもらえないのですが、感情とか想像力が全くない状態でも、人にやさしく社会に反することなくやっていけるのです」と言う。



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