不安治療薬の未来

2019年9月1日


人は今こそが不安の時代だと言うがそうだろうか。中世のヨーロッパがどんなであったか考えてみたまえと、神経科学者のヨーゼフ・レダックスは言う。

「恐らく大変な時代だったと思う。病気、貧困、肉体労働とストレスが充満していたことだろう。我々は不安を感じると、自分だけが悩んでいると思うが、他人も同じように悩んでいるのです」と不安神経科学の先端を走るレダックスは言う。

確かに私もそう思うがすっきりしない。少し早めに彼の事務所に来て待つ間、スマホを見ると、地球の肺と言われるアマゾン熱帯雨林が燃えている。米国と中国の貿易戦争が高まりダウジョーンズが600ポイントも下落した。つい最近も2回の銃射撃事件が起きて多数の人が死んでいる。

こんな事件が立て続けに起きると、自分の子供の時代はどうなるのだろうかと不安に駆られる。一方、会社から原稿の提出を少し早くしてくれの催促Eメールが入っていた。現代が不安の時代でないのなら何時が不安の時代なんだろう。

確かに誰でも不安になる。調査によると、大学卒業生が一番不安を感じるらしい。去年の秋、アメリカ心理学協会は1996年以降に生まれた人たちが最も不安を抱えていると発表している。 91%の人がストレスによる鬱、不安を訴えていた。一方、60%の学生が、去年より今年の方が不安であると言う。大学のカウンセリングセンターに訪れた学生の数は、2009年の秋から2015年にかけて30%増加している。5月には、3人に2人は健康、経済、安全に不安を感じると訴えている。18歳から34歳の人たちでは、70%が生活、安全、人間関係に不安を感じて、5人に一人は医者に行っている。

研究者は、インターネットとソーシアルメディアが事態を悪化させているのではないかと言う。「絶え間ないインターネット、ツイッター、フェースブックの情報が不安の原因になっているのでしょう」とロスアンゼルスでクリニックを運営するジェニー・タイズは言う。銃撃事件あり、家屋侵入ありで、どうして平安な気持ちでいられるであろうか。

「今ままで人類の歴史には、インターネットもスマホもなかった。インターネット、スマホは最悪な発明かも知れない」と レダックス は言う。

不安を解決する妙薬の開発は難しい。でも現代は脳科学の時代でもある。近年、脳画像技術、脳科学の進歩は素晴らしく、不安の問題を将来解決出来そうな希望が出て来た。最近の脳科学では、不安とは脳全体の問題と捉えなおしている。

「精神医学革命前夜にあると言っても間違いない。専門家に取っては眠れない時代でしょう」とソーク生物科学研究所のカイ・タイ氏は言う。

不安関連の脳回路を求めて
不安、恐怖の研究が始まった1980年代では、情報の処理は意識処理が先で、感情処理は後に来ると考えられていた。フロイトは、不安には無意識が関与していると最初に述べた心理学者であるが、当時ではそれを実証出来なかった。

この流れを変えたのがヨーゼフ・レダックスで、彼のネズミを使った実験で、恐怖を起こすのは意識とは別の神経経路であるのが分かった。感覚器から入った情報は、直接恐怖中枢である扁桃体に連絡していた。感情は圧倒的に強く、我々は恐怖の虜になってしまうのがこれで説明がつく。

扁桃体に入る神経回路は反応が早いから、生存に欠かせない。でも扁桃体系は将来への漠とした不安を説明出来ない。

1990年代にネズミを使った実験では、ネズミが不確かな脅威を感じる時、ある小さな脳が反応するのが分かった。分界条床核と呼ばれ、大きさはひまわりの種ほどで、扁桃体の近くに存在する。

扁桃体は恐怖に反応し、瞬間的動きを誘発するのに対して、分界条床核ははっきりしない不安に反応する。分界条床核が反応すると体はホルモンを分泌して、高い警戒状態に入る。「扁桃体は恐怖を起こし、分界条床核は不安を感じると考えてよい」とレダックスは言う。

ルーイスビル大学の脳イメージ研究室では、ブレンダン・デピュウ教授は人間に不安を人工的に起こして調べている。
被験者の学生がfMRIの装置の下に横になる。目の前のスクリーンには何も映らないが、時々恐ろし気な顔が現れ、悲鳴も聞こえる。合間には普通の顔と喫茶店のざわつきも聞こえる。こうして不確かな不安を呼び起こす環境を作り出して、扁桃体と分界条床核の活動を調べている。

「人が精神科やカウンセラーに行く理由は、直接の恐怖ではなく、将来起こりえる漠とした不安のためだ。問題は心にあり、原因は扁桃体と言うより、分界条床核にあるでしょう」とデピューは言う。
しかし、それだけであろうか。新しい科学では、不安を起こすとは、脳内に新しい不安回路が出来ることと言う。

2011年以来、ソーク研究所のタイ氏は、遺伝子工学で光に反応するタンパクを作り上げ、不安を起こした脳の動作を光学的に追及して来た。彼女の研究では、人が不安になると、扁桃体と分界条床核が他の脳組織、例えば前頭葉、海馬、帯状回との間に不安回路を構成するのが分かった。

「脳を社会に、神経細胞を人に例ると、情報の伝播は人が住んでいる場所よりも、誰が誰に何を言うか、どのように返事をするかで決まるでしょう。脳でも同じです」と彼女は説明する。
彼女の最新の研究結果では、扁桃体と分界条床核はそれ程重要ではない。むしろ、扁桃体、分界条床核が語りかける他の脳に注目する。
レダックスも直ぐに同意する。レダックスは、分界条床核が語りかける高級脳に注目するべきと言う。即ち、意識に迫らなければならない。

各個人には不安の閾値があってそれは遺伝的に決まるが、生活経験でも違って来る。2011年、バージニアコモンウェルス大学のチャールズ・ガードナーは、12,000組の双生児のデータを検証した結果、10歳の一卵性双生児では不安閾値は殆ど変わらなかったが、思春期から大人になる時点で大きく違って来た。 個人の不安経験により、閾値が変化したのである。

扁桃体と分界条床核は、より直接的に作動して反応は迅速であるが、意識脳、高級脳では情報を分析をするから、反応はじわっと進み、不安からの解放も遅い。恐怖とか不安は我々の意識の一部であり、不安解決には意識に迫らなければならないと、レダックスは強調する。

人が学校の試験で不安になるのは、失敗すれば暗い将来が予想され、その不安が背後にあるからだ。抗不安薬を飲んで扁桃体の活動を和らげても、この複雑な心理背景までは及ばないと、レダックスは言う。

間違った薬剤
プロザックが現れたのは1980年代で、以来40年も経過しているが新しい薬は出ていない。
「プロザック以後、さっぱり新しい薬が出てこない。プロザックの誇大宣伝と現実との落差で、メーカーも患者もすっかり熱が冷めてしまったのでは。今は絶望状態ですね」とボストン大学不安症センターのステファン・ホフマンは言う。

今もって抗鬱剤の治療効果ははっきりしない。75%の患者が効果があったと言うが、それは薬によるのか、あるいは単なる偽薬効果なのか分からない。それと不愉快な副作用が問題だ。大体25%の患者がどの薬にも反応しないと言うのは何故か。

また精神科医が診断するとき、 ”精神障害の診断と統計マニュアル” を過去70年間も使っているが、近年の脳科学の発展により時代にそぐわなくなり、心の病気を上手く説明していないのが分かって来た。

「心の病気では、一つの病気に30も40も違った症状が現れる。でも診断は僅か4つか5つの症状で下す。すると鬱、不安症と診断されても、その中には膨大な数の症状が含まれていて、ひょっとするとそれは皆違う病気の現れかも知れない」とホフマンは言う。マニュアルが問題なのは誰も認識しているが、専門家が書き変えるには未だ何年もかかる。

今後は、より進んだ遺伝学、神経科学、脳イメージ技術により、優れた治療が現れるでしょうと、アメリカ国立精神衛生研究所のダニエル・パインは言う。

残念ながら、製薬会社はまだ最新の科学知識を利用していない。脳内の不安回路を特定しないで新薬を探すから、闇に向かって矢を射る状態だ。各製薬会社は失敗を重ねて、今では抗不安剤開発の費用を大幅に削っていると、ソーク研究所のタイは言う。

「抗鬱剤を飲むと、薬は血液で運ばれ脳の血液関門を通り抜け、脳全体を薬漬けにしてしまう。すると各種の回路に影響を及ぼす。例えば2つの反対の活動をする回路があると、両者が活性化して一方の回路が他の回路を邪魔する事になるから、結果はゼロになる。だから、ある人には薬は全く効かないと言う事も起こり得る。神経回路を絞らない薬の処方では、本来の目標とは大いに違う結果になるし、副作用は当然起きる」とタイは言う。

クロノピン、ザナックス、バリウム等で呼ばれているベンゾ・ジアゼピン系抗不安剤が、従来型アプローチで失敗した例だ。ベンゾ・ジアゼピンは神経伝達物質を抑制して扁桃体の過剰反応を抑えるから不安を鎮めるが、その効果は扁桃体以外の部分にも及んでしまう。そのため、気分の鎮静効果ばかりか、歩行障害、呼吸障害、認識力低下などが起きる。

タイは強い批判にも関わらず、意外と将来を楽観している。
「不安を起こす神経回路が同定されたら、薬剤開発の速度が上がるでしょう。でも、5年から10年先の話になる」と彼女は予想する。

代替療法
薬を待つ余裕がない人はどうしたらよいだろうか。認知行動療法がある。運動もよいであろう。最近注目されているのが、数千年の歴史を持つ瞑想である。

「不安とは、将来に対する悩みです。多くの場合、10中8,9は起きない」とウィスコンシン大学のジャック・ニッケは言う。
「こんな事が起きたらどうしようと将来をくよくよ悩んでいたら、いま自分がこの部屋で一人で考え込んでいる事実に気付くのです。その気づきが瞑想の本質であり、不安に対する有力な抑止力です」 とニッケは言う。

スマホで常時情報を入手する時代に、不安への対処法は、数千年の歴史のある瞑想だとは皮肉なことだ。
もし今、貴方が不安でいたたまれないなら、先ずスマホのスイッチを切る。現在の自分に気づき、周りの音を聞こう。誰かと散歩するのもよし、太陽に顔を向けるのもよし。スマホの見過ぎは最も良くない。



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