大科学か小科学か

2015年11月14日

原爆の開発とか、月面着陸あるいはヒトゲノム読み取りのような壮大な目的を成功させるには、莫大な予算に裏打ちされた大科学が必要であろう。しかし、同じような手法を脳科学に適用できるであろうか。
この2013年4月、オバマ大統領は”革新的神経科学技術による脳研究” 略称”ブレイン・イニシアチブ”を発表したが、このプロジェクトを成功させるにはどう取り組んだら良いであろうか。

プロジェクトに、アメリカ政府は今後10年間に5,000億円を支出するが、現在のままでは大科学ではなく小科学になってしまう。発案者の一人であるコロンビア大学のラファエル・ユスティ氏は、「今、125の研究機関が名乗りを上げて、予算を獲得しようとしている。研究機関毎に予算を割り振ると、規模の小さな研究の寄せ集めになる。脳と言う未知の分野の研究には、これで良いのか」と言う。

遺伝学も、人間ゲノム全読み取りプロジェクトが始まる前までは小科学であった。しかし、それでは間に合わないことが分かり、DNA配列の読み取りは数か所の研究所に集約され、工場生産のような流れ作業になっていた。これと同じような集中化が、脳神経科学でも採用されなければならないと、ユスティ等は今月の雑誌ニューロンで訴えた。”ブレイン・イニシアチブ”の最大責任は、脳の研究のための新しい技術を開発することにあると、彼等は指摘する。

その目的を達成するために、幾つかの巨大設備を作らなければならないが、仮にそれを”脳天文台構想”と言うと、脳天文台には超高度の器機を備えて外部の研究者に貸し出す。丁度、天文学者が、世界最大の望遠鏡を予約して使わせてもらうのに似ている。一方天文台は、新しい器機の改良開発に取り組み、何時の日かそれを産業目的に使えるようにする。

マンハッタンプロジェクト
ユスティ等は先ず4つの技術開発に取り組もうとしていて、その内の3つは既存の技術の改良であり、4つ目は未開拓の分野だ。
改良の一つは、より高速のコンピューターの開発である。ネズミの脳地図作製には500ペタバイトの記憶容量のコンピューターが必要で、ヒッグス粒子発見には200ペタバイトを必要とした。人間の脳には神経細胞が860億ほどあり、ネズミは7,100万ほどあるから、単純計算で60万ペタバイトが必要になる。尚、人間の神経細胞をつなぐ軸索の長さは10万kmにもなる。注(1ペタバイトは100万ギガバイト)

二つ目は脳スキャンの改良である。既存の技術では精々ミリメートル単位の分解能しかないから、診断には有効かも知れないが、脳の細部の動きを知る上には役に立たない。高分解能スキャンがあれば、神経細胞の機能グループである、脳皮質を構成する神経柱などが見られるようになる。

三つ目は、神経細胞間の連結を調べる器機で、これをコネクト・ミクスと呼ぶ。現在は、死んだ脳を電子顕微鏡で見るだけで、これでは不十分だ。大幅に上回る器機が必要で、そうなると器機は大型になる。高解像蛍光顕微鏡の画像を三次元電子顕微鏡で見ることが出来れば、神経細胞の中の分子まで見えるであろう。それをユスティは実現したいと考えている。

ここまで来るとナノメーターと言う極微の世界に入り、生きている脳細胞を、数十万単位で同時に見ることが出来る。また、極微の世界を説明するには量子ドットとか、ナノ・ダイアモンドのような難しい言葉が必要になってくる。ナノ・ダイアモンドとは極微の水晶で、神経細胞を観測するツールとして必要であるが、どうやってこの水晶を使うかは誰も分からない。この研究を集合的にやるべきか、あるいは分散した方が良いかは議論の分かれる所である。しかし、上に述べた高額の未来器機開発については、脳天文台構想が良さそうだ。幸いにも、アメリカには既にその実例がある。
 
臨界質量
アメリカで、今まで科学天文台の役割をしているのは”The National Laboratories”である。ここの研究所の多くは、原子爆弾の開発から出発しているから、何年もかかる大きなプロジェクトに打ってつけである。この組織は既に世界最速コンピューターを5台持っているし、シカゴのアルゴネ研究所では最新の光子発生器である、エックス線発生装置を生物学者に賃貸している。昨年、この装置を使って行われた実験5000回の内、2000回は生物学関係であった。アルゴネ研究所は最近、ネズミの脳のエックス線画像を、この装置で高解像にするプロジェクトを開始した。そのために、最新の電子顕微鏡と、解析に必要な高速コンピューターを購入する予定である。

アルゴネ所長であるピーター・リトルウッドは、”National Laboratories”のメンバーにも加わってもらい、脳天文台構想を実現したいと考えている。どの辺に決着させるかは、アメリカエネルギー省長官のアーネスト・モリッツが決める。研究所全体の指揮官でもある彼は、フランシス・コリンズ(アメリカ国立衛生研究所所長)とこの件で数回会って検討している。

国会議員の中には、エネルギー省は、くちばしを挟むなと言う人もいるが、目先のきくモリッツはその意味が分かっている。彼自身、政治家であると同時に科学者でもあり、以前はマサチューセッツ工科大学の物理学の長でもあった。だから、この21世紀最大の科学挑戦を彼が逃すとは考えられない。



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