バージニア・フックスは2016年のオリンピック選考会で当時の世界チャンピオンであるマーレン・エスパーザを2度リング上で倒し一躍注目された。2017年は18-0の好成績を残し、2018年の世界選手権戦ではフライ級の相手に、4秒毎にパンチを繰り出し銅メダルを獲得した。
「彼女のパンチはまるでエンジンで、だから彼女を、”シービスケット”(競走馬の名前)と呼ぶ」とチームのヘッドコーチであるビリー・ウォルシュは言う。フックスは今週行われるパンアメリカン競技会でも最も有力選手とされていて、2020年の東京オリンピックも同様に期待されている。
「人は私を見ると直ぐ金メダルと言う」と31歳でテキサス生まれのフックスは言う。しかし彼女の本当の敵はボクシングではなかった。
約20年前に、彼女は自分が強迫行為の患者であることを知った。今年の1月にはその強迫行為が悪化し、ヒューストンのクリニックに一カ月入院している。手洗いが止まらなくなった彼女は、3時間眠るのもやっとで、ある日に、ああもうダメだと思いつめた。
ボクシングの一流選手は、相手にどう立ち向かうかよく心得て居る。相手が背が高かければ、すばしこく動く。相手がすばしこかったら、頭をつかう。相手が戦術的に上回っていたら、過酷に戦いを仕掛ける。でもフックスの本当の対戦相手は、ボクシングではなくて強迫行為と言う心の病気だ。
強迫行為とは、患者は何時も激しい強迫観念に曝されているために、強迫観念の攻撃を緩和しようと不自然な行為をする心の病気である。
「強迫行為では、儀式的行為をして強迫観念を追い払うが、強迫観念は直ぐ戻って来る。多くは繰り返し行為が止まらなく、次第に生活は困難になる」とヒューストンのメニンガークリニックのジョイス・デイビッドソンは言う。
フックスの強迫行為は不潔恐怖で、「何かに触れると、不潔ではないかと恐怖する」とフックスは言う。
ボクサーが不潔恐怖とはおかしい。ボクサーには絶えず対戦相手の汗、唾液、血が降って来る。防具とグラブは腐敗で匂う。でも、フックスの場合はボクシングをしていると気が散って、短時間の安息の場になると言う。ボクシングではパンチを避けるために神経を集中させるから、強迫行為も短時間ながら忘れているのだろう。
「でも、日常生活では強迫行為に圧倒されていてダメ」と彼女は言う。
今年の一月には、一日に3回、ウォールマートに衛生用品を買いに行った。一回に8,500円ほど買い込む。二月に4週間入院し、その治療費230万円も支払わないといけない。
「彼女はサンダルを買っても一時間履くと、直ぐ捨てる」と母親のペッグは言う。
姉のヘレンは、フックスが買った衛生手袋とティッシュが手付かずのまま、ゴミ箱に捨てられているのを見た。
アメリカボクシングチームのアシスタントコーチであるケイ・コロマは、フックスの車のトランクを一度開けてびっくりした。中は衛生用品でいっぱいで、殆ど使ってないようだ。恐らく、衛生用品でさえ不潔と考えて使わなかったのだろう。
彼女が強迫行為で倒れる前は、絶え間ない洗浄の繰り返しであった。
「おかしいのは分かっているが、止まらないのです。それをしないと、全てが停止してしまう」と彼女は言う。
コロラドスプリングスにあるオリンピック選手用のトレーニングセンターでは、練習の合間に部屋で休むことはせずに、履いた靴の底をはぎ取って、漂白し洗濯機に放り込んでいる。しかも洗濯機は使う前に一度真水を通す用心深さだ。
シャワーを浴びる前の準備も大変で、一時間かけて顔の汚れを拭き落とす。シャワーは3時間から4時間もかける。もちろん液体石鹸の使う量も膨大で、直ぐ瓶は空になる。歯磨きには最低30分かける。ブラシを9本も持っていて、あまり歯磨きをやり過ぎるものだから、歯医者にエナメル質がはげ落ちると注意されている。
「私の強迫行為は暴走していて、どうにもならない。歯のエナメル質を考えている余裕がないのです。縮毛矯正アイロンまで洗濯機に入れたのですよ」と彼女は言う。
彼女のボクシング仲間は、彼女の強迫行為を薄々気が付いていたが、それほど激しいとは思ってなかった。オリンピックで2度ミドル級チャンピオンになったクラレッサ・シールドは、フックスがリングで腕立て伏せや腹筋運動をする時、手を袖で覆い、決して彼女の手をキャンバスには触れないのを不思議に思っている。体重測定でも靴を履いたまま計測し、グラブを決して床には接触させない。マウスピースが床に落ちた場合は拾うことはなかった。
コロマは、一度フックスが6本もの漂白剤を持っているのをみて、「貴方、そんなに沢山漂白剤を使ってどうするの」と彼女に聞いている。
彼女のチームメートであるミカエラ・メイヤーが、誤って彼女の足をフックスの足に乗せてしまったことがあった。「そしたら、慌ててシャワールームに駆け込んで、数時間出てこなかった」とメイヤーは言う。
メイヤーが最初にフックスとホテルを同室した時もおかしかった。フックスはシャワールームから出てこないのだ。
「2時間の内にトイレットペーパーは全部なくなり、タオルは全て床に放り投げられ、シャワーを浴びてないのに石鹸は消えていた。ある日、シャワールームのドアーを開けると、彼女は、試合中にあびた相手の汗、鼻水、血液を一つ一つこすり落としていたのだ。しかも落とした場所を記憶しようとしていた」とメイヤーは言う。
彼女の強迫行為の場合、回数には拘らない。拘るのはスッキリ感で、それを感じるまで繰り返す。では彼女はきれい好きなのかと言うとむしろ逆で、「全てばい菌であり見えない汚染であるから、彼女の部屋に入ると床に乱雑に服が投げ出されていて、とても清潔とは言えない」とメイヤーは説明する。
コロマは彼女が苦しんでいると感じると出来るだけ近づき、映画や散歩で気を散らせようとする。何時もはそれで何とかなるのだが、今年の一月は違っていた。彼女は家に帰ると言い始めたのだ。しようがないから、フックスの身支度を手伝い彼女を空港まで見送った。一方、チームに彼女の危険な状態を伝えた。チームのメンバーは空港に駆け付け、「どうしたの、考えなさいよ、大丈夫だよ」と彼女を押しとどめた。
フックスは調子が悪い時にメイヤーの家に行き、時間を過ごす事になっていたがそれを守らなかった。入院した時に学んだことを実行出来なくなっていたのだ。「私はかなりキツイ言葉で彼女を叱った」とメイヤーは言う。
フックスを援助するためにアメリカボクシング協会は3人の心理専門家を準備している。一人はオリンピックトレーニングセンターにいて、もう一人はチームと一緒に同行する。三人目はコロラドスプリングスにいる強迫行為の専門家で、何時でも面接出来る。
毎週フックスは強迫行為の専門家とプランを立てる。例えば、一回のシャワーで使うスポンジを10個から8個に減らすとか、石鹸は一個全部使わないで、半分で済ませるとかで、その結果を報告する。
「計画通りに進むこともあるが、調子が悪い時は全然だめ」と彼女は告白する。
ミドル級のチャンピオンであるシールドは、フックスに強迫行為を治してもらいたいと強く念じている。過去沢山の強敵を倒して来たのだから、出来ない事はないと。
「ボクシングで今まで相手を倒して来られたのは練習であり、計画であり、着実な前進でしょう。最初は楽な相手から、次第に強い相手に対戦する」とシールドはフックスを元気づける。
2016年にはフックスはエスパーザをオリンピック選考会で下したが、残念ながらオリンピックチームには加われなかった。でも、リオのオリンピックには、スパーリング相手として参加した。
「夢破れたのに、我々のスパーリング相手として、リオまで来てくれた。その後、18-0の無敗記録を出している。強迫行為に苦しみながらですよ」とシールドは言う。
「強迫行為とは、何とか付き合っていくことが出来ても治癒と言うものがない。調子は良かったり悪かったりで、長い道のりです」とフックスは言う。
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