説明を欲しがる脳

2002年12月17日

 
ある日の午後、私の精神科面接室で2人の鬱病患者を続けて診察をした。2人とも鬱病特有な午前午後で変化する症状を訴えていた。この症状変化は毎日起きるホルモンと神経伝達物質の内分泌変化の為と現在では説明されている。

しかし患者にして見るとそうは考えない。一人の患者は日中は気分が良くなかったが、それは仕事のプレッシャーからであり、夕方は仕事から解放されリラックスしたから気分が良くなったと説明した。もう1人の患者は音楽家で日中は1人でいたから鬱状態であったが夕方演奏が始まる頃には人に囲まれて気分が元に戻ったと言った。

この種の患者による理由付け説明は精神医療セラピーで何時もお目にかかる光景であり、”混乱の後説明”と言う。患者は精神症状を具体的生活の一部に関連付ける傾向がある。

感情変化を日常生活の何かと結びつけようとする傾向は何も精神科の患者ばかりではない。神経生理学では全く違う条件でも同じ現象が発生している。ある人の脳を調べている時に感情を司る部分を刺激した所、被験者は電気刺激で感情が発生したにも関わらず、そうは取らず具体的理由を挙げた。

例えば笑いを起こす場所を刺激すると被験者は医者が余りにも真剣そうにやっているから笑ったと説明するかも知れないし、あるいは壁に掛かっている絵がおかしいからだと言うでしょう。

脳神経学者も同じ傾向を発見している。例えば希なケースであるが、脳の左半球と右半球の連絡が切断されているケースで言語を司る左半球が右半球で起きている思考を説明をしようと努力をしているのを観察している。

明かに我々の脳は説明のつかない感情の動きを嫌い、直ぐ何かで説明しないといられない。例えそれが事実とはかなり違っていても躊躇をしない。このプレッシャーがセラピストにとっても厄介な問題だ。結局セラピストも説明を追っている同じ立場であるからだ。

ジークムント・フロイトは自身優れた臨床医であり優れた精神疾患の観察者でもあったが、感情の説明を作り上げる能力においては世界一であった。道徳の発達から足のフェティシズムまでありとあらゆる心理現象を、手のこんだ幼児体験説で説明した。後を継ぐ精神分析の理論家はあらゆる心の病をもっともらしい物語を作って説明した。

しかし精神医療にこそ説明を求めて止まない体質があり、又それが求められている。セラピーとはそもそも説明のつかない問題を扱わなくてはならない運命にある。症状が何故起きるか説明が出来ないと患者と医師の両者に不満を生じさせる。だから何時も回答を捻出する誘惑が存在する。

セラピーでは詩作と同じように不充分な結論で終わらせようとすると破綻が待ちうけている。この場合、患者が少し気分が持ちなおした後に患者、セラピスト共にやりようが無く立ち往生してしまう。結局病状は一向に良くならない。

それでも説明はセラピーに欠かせない。セラピーは別に新しい説明を作り出しているわけではない。むしろ古い心の傷を探っているのである。子供時分を振り返り、辛い経験、無責任な親、敵対的な兄弟、社会の受け入れ拒否等が心の病にどのような因果関係を持つか説明を試みようとする。

辛い経験が既に遠い過去になっても心の傷として残り、生活の様々な場面で問題を起こす。この心の思考癖が明かになった瞬間にセラピストは患者に神経を集中する。思考癖の発見は曖昧な場面で起きやすい。患者が難局に立った時に心は過去の説明に拠り所を見つける。

ある患者はこんな話しをしてくれた。彼の上役が部屋に入ってきて、話しがしたいと言う。しかしドアーの所に少し止まって躊躇しているようであった。患者は瞬間に何か悪い予感がした。

彼の上司は恩着せがましい笑いを浮かべてそのまま立っていた。かれは机の隅で小さくなっていた。次ぎの瞬間上司が話し始めたが、彼はもう会社を首になると覚悟していた。上司は彼を嫌っていたのである。

私はそれでどうしたと問うた。

すると患者は少し間合いを取って「上司はなんと給料を上げると言いました」と言った。

我々は笑いこけた。



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