仏教は健康に良いか

2003年9月14日
1992年の春、マジソンにあるウィスコンシン大学の心理学部門のリチャード・デイビッドソンの事務所にいきなりファックスが舞い込んだ。送信人は第14世ダライラマであるテンジン・ギャストであった。デイビッドソンはハーバードで訓練を受けた神経科学者であり、肯定的感情を研究する研究者であった。当時その名前は遠くインドまで知られるようになっていて、亡命したチベット仏教の精神的指導者であるダライラマはデイビッドソンに喜んで自分の僧侶を科学的研究に協力させる用意がある趣旨のファックスを送ったのである。

自尊心の高いアメリカの神経科学者の多くは、この種の仏教瞑想の研究への研究に招待しても大抵はひるんでしまうとデイビッドソンは言っている。要するに、この様な研究テーマは曖昧であり、いかがわしいとまで考えられているのだ。しかし自分自身長い間瞑想を訓練しているウィスコンシン大学教授のデイビッドソンは、この絶好のチャンスに飛びついた。大学院に休暇届を出してインド、スリランカに東洋の瞑想を求めて旅立った。1992年の9月、彼は瞑想状態のデータを集める為の特別チームを編成し、北インドへ向けて出発した。簡易発電機にラップトップコンピューター、それに脳波測定装置を抱えてのヒマラヤ山脈の麓までの大変な旅であった。彼の目的は仏教瞑想の脳神経的観察と言う偉大でかつ捉えどころの無いものであった。しかし「彼等の瞑想はオリンピックで言えばゴールドメダリスト級なのだ」とデイビッドソンは言う。

この種の研究は10年前では考えられない程、信頼を得るようになっているが、僧侶の中には脳波計測器をつながれるのをしり込みする場面もあった。過去10年間、マシュー・リカード(フランス生まれの仏教僧侶)の手引きで北部インドや南アジアからの多くの僧侶がマジソンにあるデイビッドソンの研究室を訪れている。

リカードと訪れた僧侶は256の電極がある脳波計を頭部にまといながら、小さく仕切られた部屋の床に座って、スクリーンを見ながら脳の反応を検査をした。時としてMRIスキャンやその他の測定器に囲まれて、2−3時間も瞑想する事もあった。

未だ正式にはこの実験結果の報告は出ていないが、アジアから訪問したある仏教僧侶(175人の中の1人)では前頭前野皮質の左部分の幾つかの部位で活性が高まっていた、と昨年出された「思いやりの映像」と題した編集報告書に記されていた。この部分はおでこの直ぐ背後にある部分で、前向きの感情と関係があるとされている。

ダライラマからのファックスがあって以来、仏教瞑想の脳神経科学的研究は脚光を浴びるようになった。理由の一つには、脳のスキャン技術の発達により瞑想中の脳の状態を直接観察出来るようになった事、また長期瞑想をした後に起こり得る脳の変化も捉えられる可能性が出てきた事などがある。今やアメリカの主流の神経科学者も今回の研究に興味を示しているのである。カリフォルニア大学のポール・エクマンとハーバード大学のステファン・コッシリンは仏教僧侶の心の状態を独自に調査していて、仏教的瞑想をほどこすと人の脳と免疫に変化を起こす可能性があると発表している。

今週末にマサチュウセッツ工科大学でシンポジウムが開催されるが、そこにはダライラマ及びチベット仏教徒それにアメリカの指導的神経科学者と行動科学者が集まる。いよいよ瞑想科学に画期的ハイライトがあてられる。

マサチュウセッツ医学大学の医学部名誉教授でるジョン・カバットジンは「僧侶の瞑想の姿を見ると勇気付けられる。瞑想をするのに超自然的になる必要も無ければ、仏教徒になる必要も無い。ましてやインドの山頂で瞑想をする必要も無い。未だこの種の研究は始まったばかりであるが、これから凄いものが発見されると思う」と言う。

仏教はその2500年の歴史の中で精神の内側に注目し、幸せとは何か、煩悩とは何か、それをどう克服するか、個人と社会の平和をどう達成かの問いに答え続けて来た。一方アメリカでは、瞑想の神経システムへの短期的効果に過去数十年間注目していた。1970年代に発表されたハーバード大学ベンソン教授の「リラックス反応」は心拍数とか発汗に対する影響を調べている。しかし仏教瞑想では短期的効果より、長期に渡って精神を鍛える事を目的としている。今、科学者が興味をそそられているのは、仏教徒が長期に渡る厳しい瞑想訓練により鍛え上げた神経的、肉体的変化なのである。

「仏教にとって瞑想とはアメリカで言えばスポーツにあたる。瞑想は一連の訓練であり瞑想1つがあるわけではない。」とデイビッドソンは言う。仏教の宗派によりそれぞれ違った訓練をするとある仏教瞑想者は言う。ウィスコンシン大学の研究者はその内の3つの瞑想に注目している。その一つはある物体に長く注意を集中する精神集中である。2つ目は自発的な思いやりの育成である。怒りや不安を起こす出来事を心に描き、それに対して思いやりで対処する訓練を毎日やる。修行僧はこれが出来ると言う。3つ目は受容と非思量であり、心に浮かぶ考えは全てそのまま受容し、工夫して取り去ろうとしない」とデイビッドソンは言う。

脳は自ら習い、己を適合させ、経験と訓練により分子生物学的に変化して行く。それなら瞑想も脳に生物学的変化を残す事になるし、その変化を新技術が捉える可能性だってある。「タクシー運転手の空間認識、あるいは音楽家の音程感覚等は研究されている。要するに、何かを長いこと訓練すると人の脳には変化が起きる。例えばピンポンを毎日8時間やり、それを20年間続けるとする。その人の脳にはピンポンをしなかった人には無い何かが現れると言う事だ。又現れなければおかしい。」とハーバード大学神経科学者のステファン・コッスリンは言う。

プリンストン大学で注意と認識制御の専門家であるジョナサン・コーエンは、仏教の達人が長時間に渡って注意を集中出来るのに興味を持っている。「我々の経験では、人間と言うものは注意集中に限度がある。我々が注意を長時間持続しようとする場合、例えば空域、航路監視員がそうであるが、かなりの努力が必要で業務はきつい。仏教では注意を柔軟に集中する。彼等はこの注意の集中をむしろ心地良いとまで言う」とコーエンは言う。

今週末にマサチューセッツ工科大学で仏教瞑想研究の会合が催されるがそこに各界の有名人が集まる。参加者には人間ゲノム研究で知られるエリック・レンダーや、道徳と経済の判断における神経メカニズムの研究で有名なコーエン、財務決定の心理学でパイオニア的役割をしたノーベル賞受賞者であるダニエル・カーニマン等がいる。

「神経科学者は実質のある研究をしたいと思っていて、怪しげな無意識の世界の研究をしていると見られたくない。しかし科学の歴史は人間の傲慢さも同時に指摘している。人間が全てを知っていると思うのは間違いであろう」と会合の議長を勤めたコーエンは言う。

マジソンでの実験で、仏教瞑想が感情をコントロールするばかりでなく、生理学的にも影響を与えると分かったのであるが、今まで断片的だが報告されていた他の実験結果とも符合している。即ち、瞑想はそれをした人のストレスを抑え、負の感情を弱め免疫力を高めるであろうと言う事だ。

心が体に与える影響については長い間、科学者も興味を持っていた。特に神経と免疫、内分泌との関係が重要であった。オハイオ大学のジャニスキーコルトとロナルド・グレイサー等によれば、ストレスは特に免疫に影響するとしている。しかし何故影響するのかは未だ明らかにされていない。

面白いのは、仏教僧侶は瞑想実験で科学的質問に喜んで答える事である。「仏教は探求と経験の上に成り立っていて教義ではない。それは科学と似ていて、瞑想の科学と呼んでもおかしくない。仏教は単に釈尊を尊敬するが故に受け入れてはいけない。自分自身の経験を通して学ばないとならないと釈尊も言っている。例えて見れば、ゴールドであるか確かめる為に、石に擦り付けたり溶かしたりするようなものだ」とリカードは私にEメールで答えている。

7月、私はデイビッドソンの研究に参加して制御室で実験を見守っていた。一室には若い女性が座っていて、彼女は自分の考えに向き合っていた。感情を不安定にする画像を見た後に自分の情緒を安定できるかどうかを見る実験である。

デイビッドソンは各個人の感情反応の違いは前頭前野皮質の左右の活動の違い、あるいは活動の強さの違いによると仮説を立てている。彼の研究によれば左側前頭前野皮質は前向きの感情と関係があり、右側は不安、鬱状態、その他の感情障害症と関連があるとしている。

研究では幼児、老人、アマチュア瞑想者、東洋の瞑想の達人を被験者にしている。目的は前頭前野皮質と他の脳の器官、例えば扁桃体(感情の中枢)や前部帯状回(葛藤を見つめる部分)との関連性を調べる為である。ある研究によれば、前頭前野皮質の左側が活性化すると自然キラー細胞や他の免疫標識の活性化が見られるとしている。

コントロールルームから「それでは最初の映像がいきますよ」と伝えると、被験者の女性は肱をしっかり固めて緊張している様子であった。彼女の頭皮と右目の直ぐ下の2箇所に電極を装着している。モニターには惨たらしい切断された死体、切り裂かれた手、飛びかかろうとしている毒蛇が映し出される。画像が現れると、それに対して彼女の感情を更に煽るように、あるいは抑えるようにイヤホーンで指示される。一方、彼女の右目の下に取り付けられた電極は脳からの情報をモニターしていて、前向きの感情あるいはマイナスの感情を上手くコントロールできたかどうかを見ている。

「実験では人間が感情を自分で制御できるかを見ています」とデイビッドソンは言う。「瞑想をするとマイナス感情からの回復が早いかも知れない」と研究の責任者であるダーレン・ジャックソンは言う。

被験者は研究所に訪れた僧侶ばかりでなく、近くのバイオテクカンパニーの従業員も実験に参加している。各人の情緒反応の傾向を調べて、その人がマイナス感情にとらわれる傾向があるかどうかを先ず見る。もしそうであれば、瞑想力により心のスタイルを変化させる事が出来るかどうか。瞑想力は心ばかりでなく体の健康維持にも有力であるとデイビッドソンとジョン・カバットは考えている。

ストレス治療クリニックは1979年にマサチュウセッツ医科大学に設立され、カバットとそのグループは16,000人の患者を治療し、2,000人以上の医療関係者にmindfulness meditation(明晰に見つめる瞑想)の技術を教えてきた。この瞑想は仏教瞑想を下敷きにしていて、全てを受容し、現在を見つめる瞑想である。カバットは小論文で、乾癬治療に瞑想を応用し4倍も早い回復力があったと報告をしている。癌の患者でも瞑想をすると情緒が一層安定して、不安と慢性的痛みを軽減し、その効果が瞑想をした後の4年間も維持された。カバットは現在シグナヘルスケアー(保険会社)の依頼で、瞑想が慢性疲労症候群、結合組織炎、 過敏性腸症候群等の治療コスト軽減に役立つかどうかを調べている。

現在の所、瞑想の科学は未だ科学として人々に十分認識されていないのは事実だ。「我々の研究は未だこの分野の始まりに過ぎない。今までの瞑想研究の大半は怪しげなものであった」とデイビッドソンは言う。しかし今回のデイビッドソンとカバットが発表した研究は本格的なものである。

1997年の7月に、デイビッドソンはマジソン郊外にある小さなバイオテクカンパニーのプロメガ社の従業員を募って、プロメガと題した実験を開始した。ここでは仏教瞑想が一般的アメリカ人に及ぼす神経、免疫の影響を調べた。被験者の頭部を測定機器につないで測定が行われた。実験は8週間に及び、その後も脳と免疫標識を調べて瞑想の効果を確かめた。実験は無作為でコントロールグループとの照合も行われた。

最初は実験に加わるのを拒否する人もいたが、最終的には50人の従業員が実験に加わった。1週間に一度、8週間に渡る実験であったが、カバットはその度にこのバイオテク会社プロメガに大型のラジカセと赤と青のカセットテープそれにチベットチャイムを持ち込んだ。実験に参加した人は科学者、販売セールスの人、実験技術者、中間管理職と多様であり、皆床に座って瞑想を3時間に渡ってやった。

瞑想は心と体の両面に認識できる変化をもたらし、しかもその変化は持続すると結果が出て、7月に身心医学誌に発表された。ウィスコンシン大学の研究チームはある被験者では左の前頭前野皮質の幾つかの部分で活性が大きく上昇し、それが4ヶ月も持続したと発表している。更に、前頭前野皮質が活性化した人は風邪予防ワクチンを受けた後、強い抗体を生産しているのも分かった。たった2ヶ月の瞑想であったが、脳内で明らかに変化が認められ、仏教の瞑想者が今まで示していた事実と一致するとカバットは言う。

このような事実は一般には未だ十分納得されないであろう。実際、ウィスコンシン大学の研究結果は発表までに5年間かかった。理由は、有名な雑誌が掲載を断ったからであるとデイビッドソンも認めている。だが実験が終わる頃には一人の被験者が個人的体験話をして補足した。「私は自分が納得できないと信じない人間である。私は教義を疑う。瞑想は会社でも自分の家でもやった。結果は大変良く出ていて、ストレスはあまり感じなくなったし、イライラしなくなった。ストレスに対して許容度が上がったと思う。妻も私と一緒に居やすくなったと言っている。良くなったのは明白であり、これで十分であると思う」とスレーターは言う。

未だ、批判的な科学者を説得するには十分でないが、スレーターは直ぐさま私を納得させる話をしてくれた。「女房は瞑想を又やるようにうるさいほどせがんでいるんだ」と。



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