ヒトゲノム読み取り10年後の成果

2010年6月12日
クリントン大統領が人類のゲノム読み取り完成を宣言してから10年経つが、医学はまだその成果を生かしきれていない。生物学ではその成果により次々と出てくる生命の神秘に沸き立っているが、3000億円をかけて探求した初期の目的である、癌だとかアルツハイマーとかの病原に迫る遺伝子の回答は未だはっきりしてない。実際10年後の今、専門家はもう一度原点に戻って一般の病気の原因は何なのだろうかと考えている。

最近のゲノムの医学的応用の一つに心臓病を遺伝子から予測をするテストがある。ブライハム婦人科病院のニナ・ペンター氏の率いる研究チームが、101個の心臓病を起こすと思われる変異遺伝子を発見したが、その後12年、19,000人の婦人を対象にした研究ではこれらの変異遺伝子と心臓病との直接の関連は証明されなかった。今年のThe Journal of the American Medical Association誌2月号でペンター氏は、今までの伝統的方法である家族の病歴を調べる方法の方が結果が良いと述べている。

2000年の6月に、人間のゲノム読み取りが成功した時にクリントン大統領は「全部とは言わないまでもかなりの多くの病気の診断予防、治療に画期的なことになるであろう」と述べた。
当時のアメリカ国立衛生研究所のゲノム部局長であるフランシス・コリンズは、記者会見で10年以内に遺伝子による病気の診断が可能になり、治療はその5年後くらいから始まるであろうと予測した。15年とか20年の長い予測では治療医学の革命的変化があるのではないかとも述べている。

製薬業界はゲノムの秘密を手に入れるために数千億円の資金を投入し、得られた情報から新しい薬を開発した。しかし病気と遺伝子の関わりは今まで考えていた以上に複雑で、医学の革命的変化をさせるにはまだまだ時間がかかるのが分かって来た。

「ゲノム科学は医学と言うより科学だ」とニューヨークのメモリアル・スローン・ケターリング癌センターの理事であるハロルド・バーマスは言う。
過去10年で病気を起こすと思われる遺伝子変異体の数々が報告された。しかし多くの場合、病気になりやすいリスクの一部を説明したに過ぎなかった。そして多くの遺伝子変異は統計的な幻であった可能性もある。

ヒトゲノム計画は、1989年にヒトゲノム全体の文字を読み取り、病気の遺伝子的成り立ちを調べ新しい治療法を発見する目的でスタートした。当時は、患者のゲノム全体を調べるなんて費用の面でも高すぎて話しにならなかった。そこでアメリカ国立衛生研究所では、DNAの変異体を持っているゲノムのサイトだけを見る簡便法を考えたが、その方法はとても成功とは言えなかった。

簡便法とは、小児で発病する病気の遺伝子変異は自然淘汰されるが、一般の病気を起こす遺伝子変異は広く存在していると考える。しかし大人になってから発症する病気の遺伝子変異に対しては無効であった。そしてこの遺伝子変異こそが広くはびこっている。2002年にアメリカ国立衛生研究所はハップマップと呼ばれる138億円のプロジェクトを開始して、ヨーロッパ、東アジア、アフリカの人達に共通する変異体の目録作りを開始した。

この目録を手にしながら、病気と変異体の関連を調べた。この種の研究には沢山の患者と莫大な資金が必要であったが、2009年には400人分の作業が完成した。その結果、多くの病気で数百の関連する変異体が発見された。
しかし、それらの病気に関連する変異体は病気を起こす原因の一部でしかなかった。一般の病気を起こす遺伝子はむしろ希な変異体、あるいは殆ど発見出来ない変異体の集合から起こされているのではないかと考えられるようになった。

ハップマップを擁護する人達は「発見された変異体も実際病気を引き起こす原因になっているし、このアプローチがあったからこそ希な遺伝子変異体を発見出来た」と主張する。
現時点では、ゲノムの中の遺伝子に近い850のサイトが一般の病気の原因になっているとマサチューセッツ・ケンブリッジにある広範囲研究所のエリック・ランダーは言う。(遺伝子とは一定の長さのDNAで細胞に蛋白を作る命令をする)。しかし多くの発見されたサイトは遺伝子上にはないし、どのような機能を有しているのかも不明で、専門家の中には病気とサイトの関連は単に見せかけだけではないかと疑う人がいる。

これらサイトは病気のリスクと言うより要因に過ぎないのではと、4月16日のCell誌でワシントン大学の遺伝学のメリー・キング氏は語る。希な遺伝子変異体を重要視する現在の考えは、遺伝学の大きなパラダイムシフトであると専門家は言う。

希遺伝子変異を発見する唯一の方法は人のゲノム全体を調べることであり、少なくても遺伝をコードする部分全体を調べなければならない。でも、2003年に最初に人のゲノムを読み解いた時は一人の読み取りに500億円かかったものが、来年には僅か50万円から100万円で済むようになり可能性を帯びてきた。

ゲノム研究10年の成果の医療への貢献は期待はずれだったが、基礎科学では話が大分違っている。ゲノムの研究は生物学を基本的に変えて、次から次へと新発見が出て来た。最初の発見は、人の遺伝子の数が原始的な回虫とかショウジョウバエに比べてそれほど多くなかったことである。見えるか見えないかの小さな回虫が蛋白を作るに必要な遺伝子の数は20,000であるのに対して、人は僅かに 21,000の遺伝子しか持たない。
最近注目されている説は、人間と動物では蛋白を作る遺伝子の数のセットは同じであるが、人のセットの場合はRNAにより巧みに規制されているとする説である。
このような新しい考えはゲノム読み取りがなければ存在しなかった。全ての遺伝子とその制御要素がゲノム上のサイトに特定された結果、生物を作動させるパーツが互いに影響しあっているが分かるようになった。

「情報を埋め込む共通の足場を作ったのは科学の大変な進歩であった」とランダーは言う。
ゲノム読み取りは、その意味を解読するための多くの技術を生み出した。その一つにチップ・シークエンシング(CHIP Sequencing)と言うのがあり、これにより、クロマチンと呼ばれるDNAを包んだりDNAへのアクセスを制限したりする神秘的蛋白を研究できるようになった。

ハップマップ(HapMap)のデーターは、人類が5万年前にアフリカを脱出して以来の人類の移動の軌跡を探る手がかりを与えたし、最近の人類が受けた自然淘汰の様子を遺伝子上に特定できるようにもなった。だから各大陸に渡った人類がその地でどのような環境に直面したかも分かる。

多くの人のゲノムを分析して遺伝病のルーツが分かると期待したいが、現状ではそうなるとは思えない。もし一般の病気が希遺伝子変異体により起こるのであるなら、薬を探すのは容易でないだろう。
「率直に言わせてもらって今後どう医療が進展して行くか現時点では分からない。将来を楽観でも悲観でもなく、経験により予測することが大事でしょう」とランダーは言う。



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