眼球運動による脱感作と再処理法(E.M.D.R)

2022年9月19日


トローマ(心的外傷)は時に人の心を統御できない方向に追い込む。われわれは悪夢を忘れたいが一度PTSDになると悪夢はたびたび戻り、それを思い出させる事物、匂い、音を避けるようになり、生活も困難になる。

1980年、「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」にPTSDとして始めて登場していらい、医療の場では幾つかの療法が試みられて来た。過去10年でも新しい試みが現れ、その一つに”眼球運動による脱感作と再処理法(E.M.D.R)”というものがある。

この療法では、患者の悪夢に合わせて目を動かし、イメージ、音を聞かせて悪夢の脱感作をさせる療法である。脳は、苦しい思い出と今現在の刺激を同時に処理できない事実を利用している。最近この療法が注目されているのは、コロナパンデミックが理由の一つであるが有名人の告白も大きい。

ヘンリー王子もオプラとのドキュメンタリーで、E.M.D.R治療を受けた事を語っていた。サンドラ・ブロックは2014年、ストーカーが家に忍び込んだ事件でショックを受けてE.M.D.R.を受けている。女優のジャミーラ・ジャミルは、インスタグラムに E.M.D.R.により助かったと書き込んだ。

更に、「体は覚えている」と言う本がニューヨークタイムズのベストセラーリスト載ったのも大きい。著者のベッセル・バン・ダー・コークは、E.M.D.R.はPTSDを治す最も良い療法とまで言う。

E.M.D.R.とは1987年、自身が過去の苦しい思い出に悩んでいた心理学者のフランシン・シャピロが、ある日、公園を歩きながら目を前後左右に動かしてみて、その効果があるのに驚き療法を開始したことに始まる。

一回のセッションは1時間から1時間半で、6回から12回のセッションを受ける。最初に患者から困難の様子を聞き取り療法の計画を作成する。

「ほとんどの人は情けない悲しいと言うばかりで、さかのぼって原因を追究しない」と療法家のデボラ・コーンは言う。セッション中、耐えきれなくなった時は呼吸法や瞑想で乗り切る。こうして悪夢のパニックを防ぎながら、患者のトローマの原因になった最も困難な思い出に踏み込む。激しい経験に向かい合う時、初めて問題解決が始まるとマースリヒト大学のサーネ・フーベンは言う。

患者は湧きおこる感情に注意を払いながら、一方では目を動かし、体を軽くたたく。セラピストは患者に今の環境を意に留めながら、過去のトローマを考えるように指導する。

「患者が何故自分を守れなかったのだと言ったら、何歳だったらそれが可能かと聞く。単に座って思い耽っているだけではないのです」とアメリカ心理協会のベイル・ライトは言う。

 E.M.D.R. はどう働くのか
患者を意図的に過去のトローマに向き合わせるのはE.M.D.R.に限ったことではないと、スタンフォード大学のPTSD専門家であるシャイリは言う。
トローマの悪夢に向かうとコルチゾールのレベルは上がり、心拍が増す。しかし療法を受けると時間と共に慣れてくる。
「悪夢に対する恐怖反応が弱まると、より普通の生活が出来るようになる」とシャイリは言う。

「 E.M.D.R.とは、悪夢を思い出しながら心を現在に置く療法で、われわれは片方の足を現在に置き、もう一方の足を過去に置くと表現します」とバージニアでE.M.D.R.を指導するマリアンヌ・シルバーは言う。
トローマの悪夢に向き合いながら心を現在に引き留めるには力を必要とするが、それほど集中する必要もないとハーバード大学のリチャード・マックナリーは言う。

われわれの脳は、トローマの悪夢を思い出しつつ目を動かすと言う動作を同時にできない。E.M.D.R.の狙いはここにあり、訓練を受けると次第に悪夢の力は弱くなって行くとフーベンは言う。
「療法の終わりころには過去の悪夢を乗り切る事が出来るようになります」とマックナリーは言う。

E.M.D.R.に効果があるのか
医療の現場ではE.M.D.R.はトローマ治療に効果ありとしている。WHOとアメリカ心理協会も、PTSD治療にE.M.D.R.を推奨している。英国では国立医療センターがE.M.D.R.をトローマ治療のリストに載せている。しかし専門家は、E.M.D.R.が他の療法に比べて特別有効かについては疑問を呈している。

アムステルダム自由大学のピム・キジパーズは、有効としている調査の多くに問題があると言う。厳密な比較をしていないし、試験の規模が小さいのと、療法に有利に導いているからだ。特にE.M.D.R.ではその傾向があると言う。E.M.D.R.は効果があるらしいが、全面的に支持することは危険だとキジパーズは述べる。

果たしてE.M.D.R.の効果が長く続くかについては、ほとんど調査されてないとオランダマースリヒト大学のヘンリー・オットガーは言う。E.M.D.R.が患者に間違った記憶を作ってしまわないかの疑問も残るとフーベンは言う。

E.M.D.R.が2000年代の初め現れた頃、マックナリーは「E.M.D.R.は心理療法分野に沢山ある怪しい療法の一つ」と手厳しく言った。

E.M.D.R.の一つの狙いが悪夢に対する脱感作であるが、目を動かす事と脱感作がどれほど関係あるかはっきりしないとマックナリーは言う。脱感作は他の療法でも用いるが、効果の比較はお金が絡んでいる問題なのでご法度だとスタンフォード大学のジェインは言う。
それでも療法家にも患者にも E.M.D.R.を信じている人たちがいるとジェインは言う。

どんな人たちに有効か
「E.M.D.R.はトローマ治療ばかりでなく、鬱、摂食障害、恐怖症、依存症にも効果がある。ただし受ける前にセラピストが公認されているかどうか確認すべきだ。E.M.D.R.インターナショナルと言う組織があり、そこがセラピストを訓練して認証を発行している」とクリーブランドクリニックのトリシャ・ミラーは言う。

「医療の立場から言わせてもらえば、E.M.D.R.も含めて、効果があるものなら全て試すべきです」とジェインは言う。



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