DNAは運命ではない

2010年1月6日
雪一面のスウェーデンの過疎地は最新の遺伝学の話をするには似つかわしい場所ではないが、スウェーデンの最北に位置するこの人口過疎のノルボッテンが遺伝学の注目を浴びている。

19世紀のノルボッテンは隔絶されていて、凶作になると一気に飢饉に見舞われた。飢饉は定期的に襲い、例えば1800年,1812年,1821年,1836年,1856年は飢饉の年で人々は苦しみ、1801年,1822年,1828年,1844年,1863年は逆に収穫に恵まれ人々は飽食を楽しんだ。

1980年代にストックホルム・カロリンスカ研究所の予防健康医学の専門家であるラーズ・オロブ・バイグレンは、この19世紀に起きた飢饉と飽食がその子孫にどのような影響及ぼしたかを研究し始めた。バイグレンはノルボッテン・オベルカリックス部落で1905年に生まれた99人を任意に抽出して、その親、祖父母の生まれた頃までさかのぼり農業記録を頼りに若い頃食べていた食事の内容を調べた。

データを調べながら驚いたのは、子宮内の状態が中にいる胎児の健康に影響するばかりか、その胎児が大人になっても影響が残っていた。1986年、医学雑誌ランセットは画期的発表をした。発表によるともし妊婦の栄養状態が悪いとその子が大人になった時、心臓血管系の病気になりやすいと言う。バイグレンは、子供への影響は母親の妊娠中の条件だけか、あるいは妊娠前の条件もあるのか、それが子供に遺伝する可能性があるのかを考えた。

我々は長いこと生物学の次の原則を学んだ。我々は人生でどんだ経験をしても、(例えば記憶消失、大食い、肥満、短命等)、その経験はDNAには残らないという原則である。言い換えると、自分の子供の遺伝子はコンピューターで言えば初期化した状態になることを意味する。

常識的にも種に対する栄養の影響はそんな短期間には起きないはずである。2009年はチャールズ・ダーウィンが”種の起源”を書いてから150年になるが、彼によれば種の進化には莫大な世代交代が必要であり、自然淘汰を受けながら数百万年かかることになっている。しかしバイグレン等の研究によれば、飢餓のような極限状況は卵子、精子の遺伝子に急激な変化をもたらし、一世代あるいは二世代だけ新しい特徴を示す。

オベルカリックスの男子調査では、豊作の年では皆大食し、その男子が大人になって生む子供とその孫では寿命が明らかに短かった。2001年にオランダの雑誌”Acta Biotheoretica”に発表したバイグレンの論文では、オベルカリックスの男子で飽食をした人達の孫は、飢饉を経験した人達の孫より平均して6年も早死にしていた。このデーターに社会経済的偏差を考慮に入れて計算しなおすと、何とその差は32年にも及んだ。その後ノロボッテンの別のグループを調べた結果では、平均寿命が男子だけでなく女子にも短くなる傾向が見られた。これらをまとめると、ある若い人がある冬に大食すると、その孫が数十年も短命に終わることを意味する。一体そんな生物学的変化はどうして起きるのであろうか。

エピゲノム
その答えは生まれとか環境を越えたところにあった。この調査からバイグレンはエピジェネティックスと呼ばれる新しい遺伝学を生むことになった。エピジェネティックスとは遺伝子活動の変化を調べる学問で、エピジェネティックスでは遺伝子コードそのものは変化しないが遺伝形質を変化させ、少なくても次の1世代に伝わる。

遺伝子表現はエピゲノムと呼ばれる細胞質によりコントロールされている。そのエピゲノムはゲノムの上に位置していて(エピとはその上という意味)、このエピジェネティックマークが我々の遺伝子のスイッチをオンあるいはオフにして遺伝子表現をコントロールする。ある世代から次の世代に遺伝的影響を残す環境ファクター、例えば食事内容、ストレス、胎児期の栄養はこのエピジェネティックマークによる。

エピジェネティックスには良い面と悪い面があり、悪い面とは喫煙とか大食がDNA上のエピジェネティックマークを変化させ、肥満遺伝子の表現を強くしたり長寿遺伝子の表現を弱くさせたりする。我々は喫煙習慣や大食が自分の命を縮めるのは分かっているが、子供をもうけるはるか前の経験が我々の子孫を病気にかかり易くしたり早死に導くと分かり驚いている。

良い面はエピジェネティックスマークに働きかけ、悪い遺伝子のスイッチをオフにして病気を治せる可能性があることである。既に研究は開始されていて、2004年にアメリカ食品薬品局が最初のエピジェネティック薬を認可した。

この薬はアザシチジンの名称を持ち、骨髄異形成症候群(MDS)と呼ばれる致死性の高い血液癌治療薬である。この薬はエピジェネティックマークを利用して血液になる前駆細胞の遺伝子表現を抑制する。製造するセルジーン社によると、アザシチジンを飲んだ患者は大体2年ほど生きるのに対して、従来の薬を飲む場合は1年と3ヶ月の寿命と発表している。

2004年以来、アメリカ食品薬品局はそのほかに3種類のエピジェネティック薬品を認可した。いずれも不活性化した腫瘍抑制遺伝子をエピジェネティックで再活性化させる薬である。問題は癌、統合失調症、自閉症、アルツハイマー、糖尿病等を発病させる遺伝子を沈黙させることが出来るかである。何れにせよ、遂に我々はダーウィンの理論に対して王手を突きつけた。

不思議なのはエピジェネティックマークについては1970年代から専門家は気づいていたのに、90年代の後半になるまで本体のDNAに比べて殆ど注目されなかった。我々の腎臓の細胞も脳の神経細胞もDNAに関してはまったく同じであるが、発生期の細胞ではエピジェネティックが子宮内で遺伝子のスイッチをオンあるいはオフにして分化し始める。

次第に今までの疑問が解き明かされ始めた。例えば一卵性双生児で、一方が躁鬱病あるいは喘息を発病するのにもう一方が何故発病しないのか。この事実を従来の遺伝学では説明出来ないがエピジェネティックスで説明出来る。自閉症では男子が女子より4倍も発病するのも同様である。ノロボッテンで発見された短期間の食事内容の大きな変化が子、孫の世代の寿命に現れる現象は、遺伝子の表現パターンに変化が生じたためである。

専門家は次のような例え話をする。もしゲノムがコンピューターの本体だとしたら、エピゲノムはソフトウェアーだ。「私はマックのコンピューターを持っているがウィンドウズもインストールできる。同じ集積回路(ゲノム)を持っているが使うのは別のソフトだ。当然出来上がるのは違った細胞になる」とソーク研究所の生物学者であるジョセフ・エッカーは言う。

糖尿病ネズミを健康にする
エピジェネティックスは革命的であるがそのカラクリは至って簡単である。ダーウィン理論では我々のDNAが変わるのに多くの世代が必要となるが、エピジェネティックスではDNAに取り付くメチル其が少し変化するだけで遺伝情報が変化する。メチル其とは有機化合物の基本単位で、一つの炭素に水素原子が3つ付いている。このメチル其が遺伝子の一定箇所に取り付くと(これをDNAのメチル化と言う)遺伝子のスイッチがオンあるいはオフになり遺伝子表現が変化する。

DNAメチル化が生物の性質を変化させる可能性は1970年代には既に気がついてはいたが、2003年にデューク大学腫瘍学のランディー・ジャートル等が劇的な発表をするまで真剣に取り上げられなかった。

その年に彼等はアゴーチ遺伝子を持つネズミを使って鮮やかな実験をした。アゴーチ遺伝子とは、この遺伝子の表現が連続して現れるとネズミの毛の色が黄色に変化し、肥満と糖尿病になりやすくなる。実験では、ある妊娠したアゴーチネズミのグループにビタミンB(葉酸とビタミン12)を富む餌を与え、他のアゴーチネズミグループには普通の餌を与えた。

ビタミンBはメチル其を供与する物質で、これを多く含む餌を食べるとネズミの子宮の中でメチル其がより多くアゴーチ遺伝子に取り付く。従って遺伝子の表現に変化が生じる。即ち、DNAの基本構造に変化を与えることなしに、ネズミの母親は茶色で標準体重で糖尿病を発病することのない健康な子供を誕生させた。

最近の研究では環境が遺伝子に与える影響が発表されている。例えば、ショウジョウバエをゲルダナマイシン(研究用抗生物質)に触れさせると、目が異常に成長し、その影響は以後の13世代まで続くと言う。最初の世代以外には薬を触れさせていないし、DNAにも変化が起きていないから遺伝子にエピジェネティック変化が現れたのである。更に昨年テルアビブ大学のエバ・ジャブロンカとガル・ラズは、回虫にある種の細菌を食べさせた所小さくずんぐりした体型になり、緑色蛍光蛋白のスイッチをオフにした。この変化は40世代まで続いた。

エピジェネティック的変化は永続するものであろうか。可能性はあるがエピジェネティックスではDNAそのものには変化が生じなく進化はあり得ない。エピジェネティックとは環境ストレスに対する生物学的反応であるから、環境圧力が消えればエピジェネティック的変化も元に戻るだろう。即ち自然淘汰のみが永続的遺伝子変化をもたらすというのが現在の考えである。

エピジェネティック的遺伝変異は永続しないが、ものすごく強力でもある。2009年2月の”the Journal of Neuroscience”誌によれば、記憶もエピジェネティックスで改善して遺伝出来ると言っている。タフト大学生物化学のラリー・フェイグによると、遺伝子的に記憶障害のあるネズミに玩具を与え、運動をさせ注意を十分喚起させると、長期増強(long-term potentiation)即ち記憶作成のキーとなる神経伝達強化が起きた。驚くことにこの長期増強は、特別に訓練したわけではないその子孫にも現れている。

エピジェネティックスは専門家の間でも話題沸騰である。間もなく発売される”The Genius in All of Us”の本の中でデービッド・シェンクは「遺伝、才能、IQに対する今までの考え方は間違っている。エピジェネティックスは、”生まれか環境か”の議論をしない。エピジェネティックスはたぶんDNA以来の最大の発見だろう」と述べている。

専門家はエピジェネティックス到来を予見した昔の博学者を拒否してきた事を恥じている。ジーン・バプティスト・ラマルク (1744-1829)は、動物はその生きている内に自らの選択あるいは環境により、ある種の形質を獲得出来るし、進化は1世代か2世代で達成されると論じた。彼はキリンの首が長いのは、少し前の世代が背の高い木の先端にある栄養のある葉を食べようと首を伸ばしたからだと説明している。

ダーウィンは進化は努力の賜物ではなく、大自然の選択淘汰で起きると主張する。ダーウィン派の考えでは、キリンは数千年の時間をかけてゆっくり長い首を作る遺伝子を獲得したと説明する。ラマルクより84歳も若いダーウィンは立派な科学者として認められたのに対して、ラマルク論は馬鹿げているとして葬られた。しかし今、もう一度ラマルクの考えが脚光を浴びている。

オベルカリックス部落の謎を解く
2000年の初め頃、バイグレンは19世紀のノルボッテンに起きた現象は豊作と飢餓が村人の遺伝子にエピジェネティック変化を与えたためではないかと考えた。しかし何故それが起きたか究明するべく、1996年にロンドン大学の遺伝学者であるマルカス・ペンブレイが書いた論文を読んだ。

その論文はイタリアの雑誌に掲載されていて、今でこそ独創性に富んでいると評価されているが、当時は大いに批判され主だった科学雑誌は掲載を拒否した。彼も真からのダーウィニストであるが、”a review of available epigenetic science ”の論文でダーウィン進化論の先を見通した。もし環境と産業社会の変化圧力があまりに強く、我々の遺伝子に変化を起こす作用が働いたとしたら、もし我々のDNAが数万世代、数十万年かけて反応するのではなく、ほんの数世代で反応したらと彼は問いかけている。

こんな短期間ではDNAそのものは変化しないから、恐らくDNAの上につくエピジェネティックマークが可能にするのではとペンブレイは予測した。その理論を裏付ける実験は出来ないので、イタリア雑誌での論文発表後しばらく保留にした。しかし2000年の5月に突然ペンブレイはバイグレンからEメールをもらい、オベルカリックスの説明を受けた。それまでは2人はまったく知らない間柄であったが以来友情を温め、オベルカリックスの謎を解き明かすために共同で研究を始めた。

ペンブレイもバイグレンもオベルカリックデーターを再現したかったが、そんな実験はやりようもないし結果が出るまで60年もかかる。だが偶然にもペンブレイはもう一つの貴重な遺伝子情報にアクセスが出来た。彼は”エイボン親子長期調査チーム(ALSPAC)"の一員でもあった。この研究はペンブレイの友人であるジーン・ゴールディングの発案で、イギリス・ブリストル大学が1991年と1992年にブリストル地方の親と子供を子供の生まれる前にさかのぼって調査した。以来、ALSPAC対象の親と子供は毎年広範な医学、心理学のテストを受けている。最近私は調査対象の一人であるトム・ギブスに会った。彼はがっしりとした17歳の男子で、身長178cm、左大腿骨の骨密度は1.3 g/sq cmと出て平均以上であった。

データ収拾の目的は、各人のゲノムタイプと環境が健康と発達にどれほど影響するかを調べる。今までのところ次の重要な発見があった。
  • ピーナッツオイルを含むベビーローションはピーナッツアレルギーの発症に多少影響している。
  • 妊娠女性が強い不安に襲われるとその子供は喘息を発症しやすい。
  • 小さいときにあまり清潔にこだわるとその子供は湿疹になりやすい。
ペンブレイ、バイグレン、ゴールディング等は、このデーターを使ってエピジェネティックス研究としては画期的な論文を書いた。2006年に”the European Journal of Human Genetics”誌に発表されたその論文では、14,024人の父親に焦点を合わしている。彼等の内、166人が11歳になる前にタバコを吸い始めている。11歳とは思春期前で、思春期前には男子は精子を生産していないから精子は遺伝的に隔絶されている。(それに対して女子では生まれた時から卵子を生産している)。即ち、もし環境がY染色体にエピジェネティックマークをつけるなら、最初に精子が生産される思春期の一時期が好機になる。

この研究で、166人の早期に喫煙習慣をつけた父親の男子の子供では、9歳の時点で他の男子に比べて格段に太っていた。この男子は大人になると肥満や病気になり易く、オベルカリックスで見たような短命になる可能性がある。ALSPACとオベルカリックスに共通する要素である”年齢と男性”は、祖先の環境情報が男子を通して子孫に伝わると言うことを意味している。言い換えると、10歳の年頃に良くない習慣(喫煙)をつけるとエピジェネティック的遺伝変化が生じ、自分の体に悪影響を及ぼすばかりでなく、遺伝という取り返しのつかない間違いを引き起こすことになる。

エピジェネティックの可能性を探求する
どうしたらエピジェネティックスの良い面を引き出すことが出来るであろうか。2008年にアメリカ国立衛生研究所は190億円の予算を計上して”エピジェネティック研究プロジェクト”を開始した。その時アメリカ国立衛生研究所の所長であったエリアス・ザローニは”エピジェネティックスは生物学的の主要な課題になった”と控えめに発言した。

去年の10月、このプロジェクトが最初の成果を上げた。主にインターネットをベースとしたダンディエゴ・エピゲノムセンターという研究チームが、ソーク研究所と共同して”ヒトエピゲノム詳細マップ”を完成したと発表した。

ヒトエピゲノム詳細マップは2つのタイプの細胞(胚性幹細胞と線維芽細胞 )の部分的エピゲノムマップの作成であるから未だ道のりは長い。少なくても我々の体には210種類の細胞があり(実際にはそれ以上)、しかも210種類の細胞は各々違ったエピゲノムを持つだろうから、全てのエピゲノムマップを読み取るには190億円ではとても間に合わない。

2000年の5月に完成したヒトゲノムプロジェクトを思い出してもらいたい。最終的には25,000の遺伝子が確認されたが3,000億円の経費がかかっている。エピゲノムでは、その数が少なくても数百万にはなるであろうからコンピューターの性能アップが欠かせない。完成した暁には、ヒトゲノムプロジェクトは子供がソロバンでやる宿題程度になってしまう。

しかしエピジェネティックスが持つ可能性は凄い。過去何十年もの間ダーウィン進化論が立ちはだかり、DNAは我々は変えようがないと諦めていた。しかし今やDNAも変えられるかも知れない。まだ科学と倫理の専門家が解明しなければならないことが山ほどあるが、遂に我々はエピジェネティックスの時代に入ったのは間違いがない。



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