統合失調症に新薬の可能性
 
By ALEX BERENSON
2008年2月24日
素晴らしい理論のはずが現実には上手く行かなかったり、有望と思われていた試薬が思わぬ副作用で使えなかったりするのは新薬開発にはつきものだ。しかし遅々とした研究、失敗に次ぐ失敗の後に思わぬ幸運により大きな成功に結びつくことがある。

研究者のダリル・ショップにはその幸運が2006年10月のある晩、彼がインディアナポリスの彼の机に向かっている時に起きた。

その頃彼はイリ・ライリー社で、ある統合失調症治療の薬物の研究を指揮していた。その晩、彼の部下がその薬物の臨床結果が今までの薬とは作用の仕方が違うと報告した来た。統合失調症は大変治療の困難な病気で、イリ・ライリー社に取ってこの研究は始めから大きな賭けであったが、LY2140023と呼ばれる新薬に研究はこぎつけた。

LY2140023が統合失調症の症状を軽減したの一報はイリ・ライリー社の内外を問わず、数百人の研究者の20年に渡る努力が実った瞬間であった。

インセルによると、この実験結果は脳神経科学の歴史の中でも大発見であると言う。過去50年間、統合失調症を治療する薬は総て同じ薬理で作用していたが、ダリル・ショップが開発した薬は違っていた。

「新薬はまったく今までの薬とは違うのですね。大変なイノベーションです」とインセルは言う。

ダリル・ショップが目指した薬は従来のドーパミンに作用する薬と違って、もう一つの重要な神経伝達物質であるグルタミン酸エステルに働きかける。

各製薬会社は統合失調症ばかりでなく、鬱病、アルツハイマー、その他世界の数千万人の人を苦しめている心の病の治療を目指して日夜研究しているが、イリ・ライリー社がこの発表をして以来、各社ともグルタミン酸エステルの研究を開始した。

製薬会社を新薬開発に駆り立てるものは脳及び心の病を治す薬の市場規模の大きさで、その規模は世界で1年間に5兆円と言われている。残念ながら、現在出回っている統合失調症薬は、性欲減退や糖尿病の併発の副作用が伴い効果も今一つだ。

グルタミン酸エステルを研究する専門家は、まだ統合失調症新薬成功にはかなり遠いと控えめだ。イリ・ライリー社の今回の試験では僅か196人の臨床テストをしただけであり、更に規模の大きなテストが必要であり、2011年迄は実現できないであろう。

例え政府の認可が下りても医師達の偏見を解くにも時間がかかる。何故なら今まで大発見と期待された薬が副作用で失望を買った経緯があるからだ。

それでもダリル・ショップは今回の実験結果に満足する。「この研究にどれだけのお金と時間が注ぎ込まれたか一般の人には想像がつかないでしょう。新薬には人は注目しますが、その背後には大変な努力があるのです」と彼は言う。

イリ・ライリー社は、2009年の1月にLY2140023を870名に服用させる臨床試験を予定しているが、ダリル・ショップは間もなくイリ・ライリー社を辞める。4月に辞めてメルク社の副社長兼神経科学研究部長になり、300名の研究者からなる部門を統括することになる。

北フィラデルフィアのノースウェールズにあるメルクの4階建物の4階の地味な部屋が彼の研究本部になる。この部屋からは広い芝生の前庭が見られ、その向こうには2車線のサムニータウンパイクと呼ばれる交通量の多い道路が走っている。ウェストポイントと呼ばれる4,000人を擁するメルクの広大な研究施設は更に北に1.7km程の所にある。

ダリル・ショップはノースダコタ州ビスマーク市の労働者階級の家族に生まれ、16歳の時にオスコ薬局 No. 807で働いた経験から科学者を目指すことになる。

「科学が私に取って物凄く面白く、やってみたくてしようが無かったのです」と彼は言う。薬剤師の雑誌を読んでいる時に彼は”産業の薬剤師”と言うメルクが発行している無料のパンフレット広告を発見し、早速そのパンフレットを手紙で注文し、そこから彼の科学者人生が始まる。

彼はノースダコタ大学を受験し、精神薬学を専攻した。「私は心の病に大変興味を持ち、特にドーパミンと恋に落ちた」と言う。彼のドーパミンに打ち込む姿は凄く、最初の子供の最初の言葉はドーパミンであったと妻は言う。

研究者がある病気を研究する時はその研究者の家族が関連の病気に苦しむ場合が多いが、ダリル・ショップの場合は純粋に学問的興味であった。「私の家系では主に心臓の病気が多い」と言う。

ノースダコタ大学を卒業すると、ウエストバージニア大学の薬学と毒物学の博士課程奨学金を得て学び、1982年に卒業する。5年後にイリ・ライリー社に入社したが、その頃はまさにイリ・ライリー社がプロザックを市場に出す直前であった。プロザックは今最も売れている抗鬱剤であり、精神医学と一般の心の病に対する認識を劇的に変えた。

プロザックは大ヒットになり、イリ・ライリー社は一挙に世界のビッグプレイヤーとなった。当時、イリ・ライリー社でのプロザック発見の一人であるレイ・フラーは、ダリル・ショップにグルタミン酸エステルに注目するようにアドバイスしている。

グルタミン酸エステルは脳の中でも最も重要な神経伝達物質であり、記憶、学習、知覚の回路に伝令する役割を持つ。グルタミン酸エステルがあり過ぎると発作を起こしたり、脳細胞の死を起こす。卒中で脳は破壊されるが、その原因のひとつに過剰なグルタミン酸エステルの分泌がある。グルタミン酸エステルが少な過ぎても精神病や昏睡、死の原因になる。

「脳内通信の本流はグルタミン酸エステルなのです」とイェール大学精神科のジョーン・クリスタルは言う。ジョーン・クリスタルは同じくイェール大学の神経学者であるビタ・モグハダムと共にグルタミン酸エステルと統合失調症との関連の基礎研究をしている。

現在アメリカには人口の1%である250万人の統合失調症の患者がいるが、多くは十代終わりから二十代前半に発病していて、原因は遺伝子と環境要因と言われている。

最初の統合失調症治療薬は、約半世紀前の1960年に始まる。フランスの軍医であったアンリ・ラボリがクロルプロマジンと呼ばれる嘔吐抑制剤が、たまたま統合失調症の患者の幻覚を抑えたのを発見したのが始まりである。現在ソラジンの商品名で売られているこの薬は、脳内のドーパミン受容体を抑制する。この発見以来、各製薬会社は同様の新薬の開発に努力を注いでいる。

ソラジンを初めとする抗精神病薬は、多くの患者を最悪の幻覚と妄想から救ったが、震え、硬直、顔のチック等の副作用をもたらし、統合失調症特有の認識障害や、いわゆる陰性症状と言われる社会からの脱離の治療には効果が無かった。

1980年代には製薬メーカーも副作用が少ない新薬を求め、1990年代の中頃イリ・ライリー社はジプレクサを、ジョンソンアンドジョンソン社はリスパーダルを市場に出した。両新薬は画期的と社会に歓迎され、製薬会社もそのように宣伝販売した。

これ等、第二世代の抗精神病薬は実は作用の仕方は第一世代の薬と同じであった。両者共にドーパミンをブロックし幻覚と妄想を抑えるが、陰性症状や認識障害には効果が無かった。動作に障害を起こす副作用は比較的少なかったが、際立つ体重増加が問題であった。この為、多くの医師は製薬会社が薬を強引に売りすぎていると不満を述べ、第三世代の新薬を強く望んでいた。

「皆、統合失調症薬は効果があると言いますが、実際は部分的で不十分です。統合失調症の患者の最大の問題は認識障害にあり、それには効果がありません」と南西テキサス大学の精神科のキャロル・タミンガは言う。

1980年代及び1990年代に多くの専門家が第二世代の薬の開発に努力した中、少数ではあるが大学と企業の専門家の中にグルタミン酸エステルに注目しているグループがあった。

この人達はグルタミン酸エステルと統合失調症の関連性に興味を持っていた。フェンサイクリジン、別名 PCPと呼ばれる街中で売られている麻薬が、常用する患者に幻覚、妄想、認識障害、感情の平板化等、統合失調症に特徴的な症状を起こしていた。PCPの副作用は1950年代の後半から分かっていたが、分析技術の未熟の為に1979年まで理由が説明出来なかった。

しかし1979年にPCPが脳内のグルタミン酸エステル受容体であるNMDA受容体をブロックする事実が分かると、グルタミン酸エステルと統合失調症その他の関係を求めて研究が開始された。1990年代の初めには、グルタミン酸エステルはグルタミン酸エステル受容体( NMDAとAMPA)をブロックするばかりでなく、他の受容体にも影響を与えているのが分かった。

新しく発見された受容体は代謝型受容体と名づけられたが、その理由はこの受容体が単に回路のスイッチをオン、オフするばかりでなく、細胞が放つグルタミン酸エステルの量を調節していたからである。

グルタミン酸エステル受容体は脳でも最も重要な役割をするために、直接NMDAやAMPAをブロックしたり刺激したりすると大変危険になり、危険を回避するには代謝型受容体を攻撃する薬を開発したほうが安全と言うことになった。

「オール・オア・ナッシングで攻めるより、シグナルを上手く利用して調節した方が良いわけです。それで代謝型受容体に注目しました」とバンダービルト大学薬学のジェフェリー・コンは言う。

1990年代には、8つの代謝型グルタミン酸エステル受容体の遺伝子が発見された。それら遺伝子は神経細胞の中に別々に存在し、構造も違っていた。この遺伝子の発見により、研究は各受容体のスイッチを選択的にオン、オフする化合物の開発に向かった。理由は受容体の全部を一度に攻撃する試薬は危険であるからである。

ダリル・ショップ等に取ってはまだまだ難問が待ち受けていた。選択的にオン、オフする化合物を開発しても、その薬物は比較的製造が簡単であること、脳血管にある薬物非透過障壁を越える性質を持っていなければならない事等であった。

:脳血管には大切な脳を守る為に外部から入る毒物を通過させない障壁がある。

大変根気の要る研究であったが、イリ・ライリー社の研究陣は次第に困難を突破し、1999年の46ページの研究報告では、数十のグルタミン酸エステル受容体に作用する化学物質を発表した。

一方、イェール大学のモグハダム等も、ネズミの代謝型グルタミン酸エステル受容体を活性化すると、PCPによる精神症状を抑えるのを発見している。これは、脳内のグルタミン酸エステル系神経伝達回路を変化させると、精神病症状を解消させる可能性を示す最初の証明となった。

「この発見は大変朗報ではあるが難しい問題も秘めている。動物の統合失調症モデルや他の心の病のモデルを作るのは物凄く難しい。癌と比べても心の病気は大変複雑であるし、意識とは何かを化学で説明できる部分は限られている。脳の回路と記憶、学習、思考の関係も説明できない。多くの心の病はその基礎さえも分かっていない。例えば統合失調症には沢山のX蛋白質が関与していると分かったとしても、それでは統合失調症とは一体何なのか説明できるかと聞かれて説明できない」とロックフェラー大学のポール・グリーンガード分子細胞神経科学教授は言う。

この発見や2001年にクリスタル氏がしたケタミン(ケタミンはPCPと同じ経路で作用する)の臨床試験などにより、グルタミン酸エステル試薬が統合失調症の認識障害と陰性症状を取る可能性が浮上した。

イェール大学の発表前に、イリ・ライリー社は既に代謝型グルタミン酸エステル受容体試薬の最初の臨床試験を試みていた。対象はパニック障害の患者で、幾分の効果を確認したが動物を使っての長期服用テストで発作が見られたので2001年に試験を停止した。

しかしイリ・ライリー社は開発を継続し、もう一つの薬物であるLY404039を作り出した。「イリ・ライリー社は暗中模索ではあるが動物モデルや、許容される範囲内で人に応用して研究を継続していた」とクリスタルは言う。

LY404039を人に試してみると、人はこの物質を消化吸収出来ないのが分かった。そこで体に吸収され易いLY2140023と言う試薬を開発した。この物質は体内で代謝されてLY404039に変換される。

臨床テストを開始してから3年後の2006年、ダリル・ショップは成功の報を聞いて飛び上がった。この試薬は現在最も統合失調症に効果があると言われているジプレクサより多少効果が弱かったが、体重増加や糖尿病を起こす副作用が少なかった。更に今までの薬には無い、認識障害を直す効果があった。

もし来年の初めまでにこの試薬の効果が再確認されたら、イリ・ライリー社は数千人規模の臨床テストを実施し政府の認可を目指すことになるが、順調に行っても3年から4年かかる見込みだ。

一方、他の製薬メーカーも同じ薬の開発にしのぎを削っていて、1月にはファイザー社が日本の大正製薬に、同社の保有するグルタミン酸エステル試薬を統合失調症用に開発する契約で22億円支払った。もし開発が成功するとファイザーは更に大正製薬にお金を支払うことになる。

メルク社は12月にアデックス製薬(スイス)と二つの協定を結び、グルタミン酸エステル薬を開発する。メルクは既にアデックスに25億円を支払っているが開発が上手く行くと支払いは更に増える。

最近は大人のネズミの知恵遅れに似た症状の回復に効果があるとされるグルタミン酸エステル薬も登場した。

「我々は良いスタートを切ったと思う。しかしこの分野は加熱している」とイリ・ライリー社の社長であるスチーブン・ポールは言う。

ダリル・ショップに取って、このように社会がグルタミン酸エステルに注目するのは大変うれしいが、努力の結果が失敗であったらどうするかの質問に「私は多分外に出かけてビールでも飲むでしょう。失敗なら失敗の分析をしないとならない。その中から、何がしかの理由を学べばそれは失敗でないでしょう」と言う。



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