勘に頼って良いものだろうか。科学の発達した今、勘だなんて時代遅れと感じるかも知れないが、神経科学者は意外にも勘を信頼しろと言う。
大きな会社の社長が記者会見で重要な発表をしたとする。その時彼が、新しい方針は直感で決めたと言ったらどうだろうか。集まった記者たちはあっけに取られる。こんな重要な決定は十分練りに練って、各方面とも相談して決めるべきであると批判するに違いない。
実際、西側世界では、直感の評判があまり良くない。特に最近は分析的思考が重要視されていて、原始的、魔術的、宗教的思考は文明の遅れと受け止められている。これは事実を見誤っていないだろうか。直感はそんなにバカでもないし、理性で修正されるべきものでもない。直感は過去の経験から脳が導き出したものであり、我々の持つもう一つの情報処理でもある分けだ。
脳とは、未来を予期するコンピューターであり、入ってくる情報を過去の経験に照らし合わせ、次に何が起こるか予測する。これを予期情報処理枠組みと言うが、 直感とか勘はその枠組みから出て来た一つの情報処理結果である。
脳は常に物事に最善に対処しようとするが、時々予期せぬ事が起きると脳は学習して情報を一新する。この時、直観と言う形で知らせて来るが意識レベルまで上がって来ない。
例えば、夜の田舎の道を音楽を聴きながら車を走らせているとする。いきなり車を片側に寄せないとならないと感じてそうする。しばらく行くと何と大きな穴が道路に開いているではないか。危うく落ちそうになったが何とか避けた。恐らく、ずっと先に行く車が大きくハンドルを切ったのを、目の何処かで捉えていたから出来たのであろう。
ある分野で習熟すると、直感も正確になる。これは我々の直観も経験の蓄積に基づいているからである。
直感は自動的で素早く、無意識であるのに対して、分析的思考は遅く、理論的で意識的である。直感と分析思考は、シーソーのようにギッタンバッコンの関係であると見勝ちであるが、最近の科学は性質は違うが、同時に起きると説明する。分析的思考では、ある考えが他の考えに優越する事が出来るが、直感が我々の意識下で作動している場合、決定が困難になっても理由がつかめない事がある。
直感と理性的思考は、実際には互いに補う関係にある。科学の大発見は科学者の直観から出発している場合が多く、仮説として早くから登場し、年月を経てやっと実験で確認される。
直感は時々頼りなくなるが、分析的思考も膨大な熟考の割りには無益になる事もある。余り考えすぎると決定が遅くなり、チャンスを逃すマイナスも見逃せない。分析的思考は元々は勘で決定したのを、後から理由付けして、事後正当化している姿に過ぎない場合がある。
これは倫理的にジレンマに陥った時に起きやすい。この姿を、報道官あるいは直感の弁護士とも言うが、勘で決めた行動を正当化している。
では、我々は直感に全幅の信頼を寄せて良いのか。直感は進化的には古い脳の機能であるから、早く、自動的で時に原始的でもある。分析的思考と同じように、偏った認識により判断をしている場合があり、当然間違う。これを避ける方法として、認識の偏りに気が付くことも一手段である。
例えば皿一杯のドーナツを見て直感的には全部食べたいと思うが、現代では全部食べるとカロリーを取り過ぎる。大昔では正しかったかも知れないが現代ではそうでない。狩猟採取生活時代では、次の食事が見つかるのは何時に成るか分からないから、食べられる時は出来るだけ多く食べるが正解であった。
直感を聞きつつ事実を冷静に見ることだ。余りに動物的でないか、認識が偏ってないか、経験はどうかと疑って見る。認識に偏りがあり、専門的知識がないなら止めるべきであり、そんな心配がないなら、大いに直感を利用しよう。幸い直感と分析的思考は同時に起こるから、難しい場合は両者を比較して良い方を選ぶ。
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