記憶のメカニズムを求めて

2012年3月5日
ノーベル賞受賞の神経科学者エリック・カンデルは今、82歳になるが、現在も新しい研究に意欲を燃やしている。去年は、コロンビヤ大学の研究者であり、彼の妻でもあるデニス・カンデルとタバコ依存症とコカイン依存症の生物学的関連性を研究し、今年の冬は、新しい分野の統合失調症治療薬開発に取り組んでいる。今月は彼の最新出版である”1900年から現在に至る無意識の探求”をランダムハウスから出す予定だ。
以下は彼との2回にわたるインタビューからの抄録で、彼の本と同様、会話は彼の生まれ故郷であるウィーンから始まる。

ウィーンにナチが侵入してきた時は貴方は何歳でしたか。
8歳の時でした。すぐ我々はこれは大変なことになると感じました。ユダヤ人以外の全ての人達から絶縁されたのです。学校でも誰も話しかけてくれません。ある少年が近づいてきて「お父さんがもう貴方と話してはいけないと言った」と言います。近所の公園でも乱暴され、1938年の11月9日の”クリスタルの夜”、私のアパートは人々に侵入され、破壊され、一家はついに街路に放り出されたのです。
幸運なことに母親が将来を案じてアメリカへのビザを申請していて、1年以上待った後、上の兄と共に大西洋を渡りました。ナチが進出するころには私は分別がつく若者になっていて、難局でもすこしもひるみませんでした。そして後から両親がやって来たのです。

2000年のノーベル賞生理学部門での受賞の後に、オーストリアから何か連絡がありましたか。
ある新聞社に勤める人から連絡がありまして、「オーストリア人がまたノーベル賞を受賞した。これはすばらしいことだ」と言いましたから、私は「それは間違っている、受賞はアメリカに住むユダヤ人であって受賞国はアメリカです」と言ってやりました。
オーストリアの大統領が、「貴方を表彰したいのですが、どうしたらよいでしょうかね」と言ったので、表彰はいらないから、ウィーン大学でシンポジウムを開いて、国家社会主義を受け入れたオーストリアについて討議すべきだと言いました。
そしたら「結構。私には歴史家のフリッツ・スターンがいる」と言いまして、シンポジウム開催に協力してくれました。そのシンポジウムから本が一冊完成しまして、まあまあの出来でした。

1950年代、貴方がハーバード大学の学生であった時に精神分析に憧れましたね。これはあのウィーンでの悲劇に関連していますか。
精神分析があまりに多くのことを解決するように見えたものですから魅了されたのです。1950年代から1960年代は、世界のインテリが皆そうでした。あの当時、精神分析こそが心の病を解決できると考えられたのです。しかし、精神分析が現実を解決すると言うより夢に近いと分かった時、幻滅は大きかった。私も精神分析をやめて研究に打ち込んだのです。

この精神分析の売れすぎが信用の失墜につながったと思いますか。
そうでしょう。精神分析は大変魅力的ですが、医学にならなかった。おかしなことに、精神分析の成果を判定出来ないのです。なぜ出来ないのかと聞くと、測定する方法がないからだと言います。
しかし、どういう条件なら精神分析が偽薬以上の効果を示したのか、他の療法より有効なのか、誰が精神分析でベストの成績を出したのかと調べることが出来るのです。

ノーベル賞を受賞した記憶研究について話してください。
私は長らく記憶について興味があり、細胞レベルではどうなっているのかを知りたかった。私が若いころ、私の師匠であるヘリー・グランドフェスト氏が「君、もし脳を知りたいなら、より単純化思考を目指すべきだ。細胞の一つ一つを調べることだな」と言ったのです。

1950年代の後半、私とオルデン・スペンサーが、海馬が脳の他の神経細胞と交信する様子を捉えました。その少し前に、ブレンダ・ミルナーと言う心理学者が、記憶には海馬が関係しているといい始めていたので、我々も海馬を選んだ分けです。海馬の細胞への入力経路を色々刺激して、海馬の神経細胞がどう働くか観察しました。しかし記憶のメカニズムの解明には至らなかった。

それで1960年代に入り、哺乳類のような高度の脳を調べるのは止めて、もっと初歩的な動物の神経組織を調べることにしました。いわゆる単純化思考です。
海にはアメフラシ(Aplysia)と呼ばれる一種のカタツムリが住んでいますが、この動物は大変大きな神経細胞を持っています。これを使ってパブロフがやったような学習と反射運動を測定したのです。

アメフラシに刺激を与えて反射する様子を見ると、反射運動には数種類の変化がありました。アメフラシが学習して神経細胞の働きに変化が生じたのです。
次に、この水生のカタツムリの短期記憶と長期記憶のメカニズムに取り組みました。それによると、短期記憶とは神経細胞の連結の一時的変化だったのに対して、長期記憶では新しいシナプスが形成される組織的変化であったのです。

その時に驚きましたか。
それは驚きました。経験、学習から神経細胞のシナプス連結が2倍に増えるわけですから。長期記憶とは神経細胞の遺伝子の表現が変化して、新しいシナプス連結が出来る過程です。この現象を細胞レベルで観察すると、脳はまさに経験で変化する組織だと分かります。生まれか育ちかの議論をよく聞きますが、両者は別個には存在しないでしょう。

脳科学が進みますと色々可能性が出てきますね。例えば、PTSDに苦しんでいる人の苦しい記憶を削除するとか。こんな動きに賛成しますか。
記憶を増強するなら賛成しますが、記憶を消し去るのは賛成できませんね。ある特定のトローマだけを消すなら許されるけれど、他にもやり方があるのではないですか。脳の中に手を突っ込んで、不幸な記憶を排除するなんて良くないですね。
我々は結局、我々でしかないのです。私のウィーンの記憶を排除したいかって。そんなことは絶対あり得ない。あの記憶が私を作っているのです。



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