10月に発表された研究によると、南北戦争で捕虜なった人達の子供は中年を過ぎると、10%ほど一般の人よりも死ぬ割合が高いと発表して社会に大きな反響を与えた。これは、個人がうけたトローマは遺伝子に変化を与え、影響は次の数世代に及ぶと言う、最新のエピジェネティックス遺伝理論を裏付けている。
エピジェネティックスの考えは10年前に現れたが、以来新しい遺伝学として注目されている。第二次世界大戦の終わりころ、オランダでは食料危機が起きた。飢餓に襲われた人達の子供を継続的に調べると、健康に問題が生じていて、特に肥満が目立ったとされる。
以来、ナチス・ホロコーストの生存者とその子孫や、極貧に育った子供たちの追跡調査が行われて、エピジェネティックスの有無が検証されている。
もし、エピジェネティックスの存在が確かめられたなら、我々は親、親の親の経験を背負うことになり、考えさせられる。
しかし、研究者の間でも反対意見が出始めた。反対者は、そんな生物学はありそうもないと言い、賛成者は証拠は十分にあると言う。
「エピジェネティックスの主張こそが現代科学の病弊で、目を見張るような発見であればあるほど、その疑いが否定される」とダブリン・トリニティーカレッジのケルビン・ミッチェルは言う。
一方エピジェネティックスを支持する人たちは、批判は未だ早いと言う。エピジェネティックスの科学は未だ始まったばかりであり、ネズミを使って実験をしている段階だ。「エピジェネティックスの証拠は首尾一貫している。科学の新発見では最初は疑わしいが、次第に確信に変わって行く」とマックギル大学のモッシェ・ジフ氏は言う。
論争は遺伝学と生物学の両方で行われている。例えば妊娠女性がアル中であったなら、アルコール環境は胎児にも共有されているから、胎児にその影響は及ぶ。しかし、虐待により生じた脳細胞の変化が、精子、卵子に伝えられるかどうかは別問題だ。
一般には精子が卵子と合体すると、過去の出来事は全て削除され、コンピューターでいえば再起動の状態になる。故に遺伝子に書き込まれた化学記号は剥がされる。受胎後の卵子は、脳細胞、肺、皮膚へと個々の器官に成長する。この過程でトローマの傷がどうして生き残るのか。
メリーランド医科大学のトレーシー・ベール氏は、ネズミを使ってエピジェネティックスの研究をしている。研究では、ネズミを入れたかごを定期的に傾けたり、夜電気をつけっぱなしにして、ネズミにトローマを経験させる。トローマを経験したネズミは、その後ストレスホルモンのコントロール法が変わってしまう。
変化は特に子孫に現れ、子孫では殆どホルモンに反応しなくなったと、メリーランド医科大学エピジェネティックス研究センターのベイル氏は言う。「これがエピジェネティックスの証拠で、この分野の研究は最近進歩が著しい」と続ける。
多分、最も具体的なのはマサチューセッツ大学のオリバー・ランド氏の研究であろう。彼はネズミの副睾丸に注目している。精子が射精の前に蓄えられる場所で、数日間精子はここに滞在して、その間に精子の遺伝子に化学的マークが付けられるとランドは説明する。
「エピジェネティックス変化を起こす分子は小型RNAと言われる遺伝子の断片で、副睾丸は小型RNAを生産し、これを精子に付着させる。副睾丸の中に、父親の環境を読み取って小型RNAに変化を与える場所があるのではないか」とランドは言う。
他の研究者は、副睾丸由来のRNAは、受胎をした時に遺伝情報をデフォールトするプロセスを妨害するのではないかと言う。
批判派はこれに納得しない。「副睾丸でRNAに変化が起きると説明するのは、あまりに出来過ぎている」とアルバート・アインシュタイン医科大学のジョーン・グリーリは言う。
ここまでの論争は動物実験に基づいていて、人間には未だ手が届かない。また、小型RNAではなく、シトシンメチル化と呼ばれる受胎の後に起きる化学現象に注目する研究もある。
人間が数世代前の経験を遺伝的に負うと言う考えは、飢餓、戦争、奴隷を思い出させて、我々の感情を痛く刺激する。しかし、過去の人類の残酷な経験が、我々の生理に影響していると考えるには、まだ早すぎるようだ。
脳科学ニュース・インデックスへ