インセル、13年間を振り返って

2022年2月22日


インセルは世界の精神医学研究のトップとして、2兆円の予算を国家から導きアメリカ国立精神衛生研究所を13年間指揮してきた。研究方針も従来型の行動療法研究から神経科学、そして遺伝子科学へと方向を変えた。

「私の努力が精神病治療の向上になるはずであったが、残念ながらそうならなかった」と述べる。現在70歳になるインセルは、研究所長を2015年に辞めているが、彼が最近著した本の中で満足できない気持ちを吐露している。

彼の本、「治療」は科学の告発と言うより、精神病を取り巻く環境、ケアーの不備、地域医療の貧弱、警察刑務所への依存を問題としている。
アメリカの逆説にも触れて、アメリカは世界でも最大の予算を脳科学に向けているが、実際は患者の利益になってない。その理由の一つに脳の複雑さがあると述べる。

インセルは、世の中に脳神経科学への強い期待のある中、アメリカ国立精神衛生研究所長官になった。当時、彼自身も遺伝子に賭けるとまで述べていたが、その20年後の今、統合失調症、躁鬱病の治療は未だ確立していない。

「遺伝子は見つかっているが、病気を起こすリスクとしては大きくない。リスクも沢山集まれば症状になって現れるであろうが、沢山集めようとすると研究規模が大きくなる」とインセルは言う。あの頃、どうして心の病を治すのに遺伝子の役割を無視できたであろうかとも反論する。
「これ等の小さなリスクの先に心の病の原因が潜んでいるとは思うが、私の人生が間に合わない」と彼は続ける。

ある男性の追求
遺伝子研究の成果を発表する集まりで、実年の男性が立ち上がって統合失調症を発病した彼の23歳の息子の話をした。息子は病院へ入院、自殺未遂、ホームレスへ転落と最悪の道をたどっていると言う。
「我々の家はまさに燃えている。しかし、貴方は壁に塗ってあるペンキの組成の話をしている。早く火を消す方法はないものだろうか」と述べたと言う。

「彼の言葉は大きかった。私を始め多くの研究員が必死に努力をしているが、この簡単な事実を甘く見ていたかも知れない。今の瞬間にも数百万のアメリカ人が地獄の中で死んで行く」とインセルは言う。

インセルは心の病を解くには遺伝子の研究が重要と信じている。彼はアメリカ国立精神衛生研究所の研究予算の内1300億円をこの方面に向けた。しかし批判する人もいて、彼らは予算をもっと臨床治療の研究や薬物、療法に振り向けるべきだとしている。

博打を打つ
デューク大学のアレン・フランシスは2014年に、インセルは脳神経科学で大博打を打ったと言っている。
「過去30年間の研究成果は必ずしも患者を救っていない。最近のアメリカ各都市のホームレス人口の増加を見なさい。心を病む人たちの生活は前の方がよほど良かった。これでは科学者として私自身も満足できない」と彼は言う。

インセルは少し違った見方をして、むしろ国はもっと脳科学に予算を拠出すべきだと言う。
「アメリカの精神医療が危機に瀕しているのは研究に問題があるのでなく、国の介護に問題がある。国が多方面から解決する問題である」と彼は続ける。しかしこれがアメリカ国立精神衛生研究所の人たちを幾分苛立たせている。

研究所も良い実績を残している
インセルの後を継いだ現在の長官であるゴードンは、インセルは研究所が成し遂げた素晴らしい成果を認識してないようだと言う。その例として、治療困難な鬱治療にケタミンを発見していること、産後の鬱の治療薬であるブレクサノロンを出したこと、精神症状が最初に現れた時の対処法の研究等だ。

画期的治療法の発見には数十年が必要と彼は言う。例えば、ハンチントン病の遺伝子をクローン技術で作成した当時は彼が未だ大学院生の時であったが、その30年後の今、やっと新しい治療法に結び付いている。同様に自閉症、躁鬱病、統合失調症に対する決定的治療が5年とか10年で出るのは難しい。しかし現在数百の関連遺伝子が発見されていて、これが脳にどう作用するのか分かり始めている。  

インセルは社会に警笛を鳴らすが、地球温暖化に警笛を鳴らすアル・ゴアとは違った道を歩む。
「社会が心の病気対策をもっとやってもらいたい。現在のように、ホームレスになりゴミをあさり55歳の若さで死んでいくなんてだめだ。研究も私の年齢で後30年は待てない」と彼は言う。



脳科学ニュース・インデックスへ