2024年3月30日 |
われわれの体は自分で気が付く前に外界に反応する時がある。心拍数とか呼吸の変化で現れるが、これと感情、不安、自意識との関係はどうなっているのであろうか。 2005年のある日、17歳のアレックス・メッセンジャーはカナダの亜寒帯約1000kmをカヌーで踏破していたその時、突如グリズリーベアーに襲われた。 その日は自分のテントを出て近くの山に登り始めたわけだが、折り悪く向こうの尾根では熊も登っていた。両者の行くてが間もなく重なって、「何か茶色の物体が動くのを見て体に電気が走った」と彼は言う。 「熊だと分かったのは衝撃を感じた少し後だった」と言う。 最初はその茶色の物体が鹿ではないかと感じたが、300kgにもなる熊であった。熊は直ぐ彼に襲い掛かかり、彼の頭へ一撃を加え、太ももにかみついて彼は気を失った。幸運にも気絶した彼を見て熊はその場を去った。 この話は、単に熊の攻撃から命拾いした話にとどまらず、体の内部から伝わるシグナルの存在を物語っている。外から入る視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚の五感は誰でも分かるが、もう一つ、体の内部から来るシグナルにも注目しよう。体の内部から来るシグナルは体の恒常性を保つ重要なシグナルであり、血圧、血糖値、食欲、喉の渇き等も含まれる。このシグナルも考えとか感情、心の問題に影響しているのではないか。 1884年に発表されたジェームズ・ランジの理論によると、悲しいから泣くのでなく、泣くから悲しくなり、攻撃するから怒り、震えるから恐ろしくなるのだと言う。この理論はユニークで今まで大いに議論され進化もしてきた。 南カリフォルニア大学のアントニオ・ダマシオは「考え、感覚、感情は体の内部からのシグナルに影響されている。心は体と脳の相互作用の産物である」と言う。 考えに及ぼす要因として遺伝子、癖、経験、ハイテク、時間、腸内細菌等があるが、もう一つ体の内側から来るシグナルも付け加える必要がある。 「体内から伝わる感覚とは心臓の鼓動、呼吸等であるが、トイレに行きたい、気分がすぐれないもそうです」とロンドン大学のジェニファー・マーフィーは言う。 臓器を含む体の各部から発せられるシグナルは脊髄神経や血液中の神経伝達物質によって脳に送られるが感覚としては弱い。動悸、緊張、空腹などは知覚できて対処法も分かる。 ここに来て不安症、鬱、摂食障害の原因は体の内側から来るシグナルに間違って対処しているのではないかとする説が登場してきた。 「海の底がどうなっているか分からないが気候変動に大いに関わっているのは分かる。同じ事が内なるシグナルにも言える」とローリエイト研究所のハルサは言う。 それなら内なるシグナルにどう対処したらよいか。 誰でも不安になると鼓動が早くなる。しかしジェームズが示唆したように鼓動が早くなるから不安になるのだとすれば、鼓動を遅くすれば不安は下がることになる。 「内なるシグナルを正確に測定するのは難しい。測定出来たとしても変化させるのが難しい」とサセックス大学のセスは言う。にも拘らずロンドン大学のガーフィンケルは心臓の鼓動を認識することにより恐怖反応を変えられるとしている。 実験では心臓の収縮期と弛緩期に被験者に恐ろしい顔と普通の顔を見せる。その結果、心臓が収縮期に怖い顔をより強く認識した。 2023年にスタンフォード大学から発表された研究では、心臓の鼓動と不安反応の変化をテストした。研究では光遺伝学を使って鼠の鼓動を光で操作して、光を照射した時に鼠が水を求めて敢えて危険に挑戦するかどうか調べた。結果は鼠の心臓の鼓動が速まると、外部から見える場所を避けるようになった。 「これは鼠の実験ではあるがジェームズ・ランジの理論に一致した」とセスは言う。即ち、体の内部から送られるシグナルは感情に影響を与えるということだ。 ガーフィンケル等の研究によると、ロンドンのヘッジファンドのトレーダーで心臓の高鳴りを感じる人は勝負で勝ち易いし、長く仕事をしていると言う。 一般の人では、自分の体から伝わる信号が分からないと感情のコントロールが上手く行かない傾向があった。 「心に問題のある人は体から伝わる感覚に対応していない」とマーフィーは言う。 内なるシグナルの認識については個人差が大きい。ある報告では女性は男性より認識が弱く、それが鬱に女性がなりやすい理由かも知れない。原因として遺伝子、ホルモン、環境があげられる。 実際マーフィーは女性の生理と内なるシグナルの関係を調べている。 ハルサは人に振動カプセルを飲んでもらい、外側から振動を起こさせて内なるシグナルへの反応を測定している。これにより拒食症の改善が出来るかどうかを調べている。拒食症では体から伝わるシグナルで膨満感が生じて、少量の食事をするだけでいっぱいになる。 一方ガーフィンケル等は自閉症への応用を考えている。自閉症では内なるシグナルに対する感性が弱いため不安を感じやすい。あるテストでは大人の自閉症に心拍を聞く訓練を施した。この訓練により比較グループと比較して不安のレベルが大いに下がっていた。患者は内なるシグナルをより敏感に感知して不安の発生を防ぐことができた。 内なるシグナルとは自己の一部ではないのか。 「意識とは自分の司令塔であるが、実はプロセスであり、体の外部と体の内部から送られるシグナルにより成り立つ脳の活動である」とセスは言う。 脳の仕事は体を守る事、即ち生きる事で脳は外部からの情報を適切に判断する一方、体の内側にも注意を払っている。脳は生命を維持するために予測し、エラーを発見し、訂正し、体全体の恒常性を保つとセスは言う。それならメッセンジャーが経験した熊との出会いをどう説明するか。 「あれは体の防御反応です。体が自動的に動いた。シグナルは体の外側からも内側からも来ている」とセスは説明する。 体の内なるシグナルの役割解明により心の問題を解決したい。 脳科学ニュース・インデックスへ |