2021年11月5日 |
クリス・ガスマン40歳は慢性の鬱で長く苦しんでいた。彼も普通の抗鬱剤と認知行動療法を受けていたが症状の回復は思わしくなく、3年前には社会活動どころか家事すらできないほどになってしまった。 「もうだめかと思った」とマイアミに住む彼は言う。そんな時にかかりつけの医師がケタミンがどうだろうかと彼に勧めたので、ケタミンを処方する近くのクリニックに出かけた。 ケタミンとは麻酔剤の一種で、最近鬱の治療に有効ということで注目され始めている。「なんと、ケタミンの静脈 注入を受けた翌日にはほとんど正常に戻っていた」と彼は言う。実は彼の家では両親も同じ苦しみで悩んでいて、すぐ両親にケタミンを受けるように促した。 ケタミンとは1970年代のヒッピー文化華やかな頃に流行ったドラッグで、当時はスペシャルKと呼ばれていた。しかし最近鬱を治す効果もあり、しかも即効ということで注目され始めた。SSRIと呼ばれる抗鬱剤は、神経伝達物質のセロトニンに働きかけるが、ケタミンは同じ神経伝達物質でもグルタミン酸に働きかける。 ケタミンは、SSRIに反応しない鬱病、躁鬱病、強迫行為、対人恐怖にも有効で効果が出るのが早い。この手の情報は広まりが早く、一気にケタミンを処方するクリニックが全米にたくさん誕生した。 普通ケタミンは静注であるが、鼻スプレー式とか錠剤もあり、錠剤の場合は一週間に二度飲み2か月ほど続ける。ケタミンには現実感の喪失や高揚感という副作用があるので、接種後1時間から2時間はクリニックで様子を見る必要がある。 ガスマンの場合は、眠気を催し魂が体から抜けたように感じたが、彼はこれを気持ちよいと表現している。ただし、ぼんやりとし、体のバランスが取れない状態が数時間続いた。 「ケタミンを求める患者が多いのは認めるが、広く一般に処方されるにはまだ早い」とスタンフォード大学のキャロリン・ロドリゲスは言う。彼女はケタミンを強迫行為の患者に応用して効果を確認している。 ケタミンの再評価は社会に反響を呼んでいる。実は従来の抗鬱剤では効果の出方が遅く、しかも3人に一人は反応しなかった。これは強い自殺念慮のある患者には危険であるとコロンビア大学のジョシュア・バーマンは言う。 ケタミンは1970年以来、麻酔薬として病院や戦場で使われてきたが精神科での応用は最近である。政府はまだ一般精神科での応用は許可していないが、医師はすでに適用外処方していて、それが今ケタミンビジネスが流行る理由である。 ケタミンのPR活動をしているクリス・ウォーデンは、ケタミンを処方するクリニックの数は全米で数百にのぼり、正確な数がわからないほどだという。臨床テストをする大学と協力関係にあるクリニックもあるが、多くは小さな専門店のような形で運営している。ヌシャマがよい例で、ニューヨークのパークアベニューにオープンし、デザイナーのジェイ・ゴッドフレイが始めた。 患者の中にはクリニックを全然通さないでケタミンを得ている人もいる。マインドブルームとは、インターネット上でケタミンを含む飴玉の注文販売をする会社である。ここは精神科医と協力して注文を取っている。同じインターネット・ビジネスにマイケタミンとかトリップシッターがある。 この種のビジネスは精神科医と連携するばかりでなく、サイケデリック・ガイドと呼ばれる人を置いてオンラインで患者をサポートしている。彼らの多くはカウンセリング、生活指導、危機管理の訓練を受けたことになっているが特別な資格は必要はない。 マインドブルーム社のディラン・ビーノンは、ケタミン治療で鬱病、不安症の80%が改善していて、副作用は5%程度で軽いものと説明する。また患者に直接送ることにより、クリニックなら1セッション4万円から8万円払うところを、1セッション2万円以下に抑えることに成功したという。しかしこの値段でも多くの人にとってかなりの金額だ。 多くの専門家はケタミン処方には条件をつけるべきという。なぜなら、大量に接種すると強い分裂感覚や緊張をもたらし、血圧の上昇、妄想、自殺念慮の発生などがあり得るからだ。 マインドブルーム社の医師でもあるレオナード・バンドは、数万回のケタミンを今までに処方をしているが、副作用は少なく、時々むかつきを訴える程度であるという。イエール鬱病研究プログラムのジェラルド・サナコラは、「深刻な副作用はまれではあるが、胸部の痛みを訴えることもあり、心臓病の履歴がある人には好ましくない。沢山のケタミン処方を見ているが、時々思わしくないことも起きているようだ」と彼は言う。 「ケタミンは心拍を亢進させ血圧をあげる場合もあるので、心臓病の有無をチェックする必要がある」とロドリゲスは言う。 未だ政府の承認を得てない マインドブルーム社 のディラン・ビーノンは 、患者にかかりつけの精神科医にケタミンが向いているかどうか聞くよう指導していると主張する。マインドブルーム社は患者をインターネット上で予備審査し、35%の人には処方していないという。拒否する理由として、ケタミンを必要とするほど症状が重くないこと、逆に自分で接種するには症状が強すぎる人たちだという。しかしその具体例を彼は言わない。 法律でも予備審査を義務付けてないし、大体患者はオンラインで処方する会社を探して、監督の目が及ばない薬局で得ている。 「ケタミンは脳の依存症を起こす部分を刺激するから問題なのです。特に必要以上の量を処方するクリニックに要注意だ」とロドリゲスは言う。 ケタミンは効果の持続時間が比較的短いため、患者によっては長期間服用する必要がある。しかし、長期間飲んだ場合の副作用データはないとバーマンは言う。 2019年に、アメリカ食品薬品局がエス・ケタミンと呼ばれるケタミンの鼻スプレー薬を許可した。許可するにあたり大規模試験が行われ、鼻スプレー薬のガイドラインが作成された。 「ケタミンではガイドラインが作成されたが、他の抗鬱剤では作られていない」とサナコラは言う。ロドリゲスは、ケタミンを処方するクリニックやオンライン会社は、アメリカ精神科医協会が2017年に出した声明に従うべきと主張する。その声明によれば、設備の不十分なクリニック、オンライン会社は処方できない。 専門家の多くが現状のケタミンデータの不足を認めていて、それを解決すべく多くの研究が現在進行中である。でもエス・ケタミンで行われたような大規模テストは難しいとバーマンは言う。なぜなら既に適用外でケタミンは処方されていて、それなら無理をして多額の費用のかかる臨床試験をする必要がないからだ。 「ケタミン鼻スプレーで大規模テストが実施されたのは、それが新しい技術で製薬会社にも取り組む価値があったからだ」と彼は言う。 現状のデーター不足に対処するために、専門家はアメリカ食品薬品局が定めた「重大な副作用防止のためのリスク管理と緩和プログラム」のようなものを設けるべきと主張する。そうすれば、副作用、処方の仕方が記録され、問題が起きた時の原因解明につながる。このようなプログラムは決してケタミンにブレーキをかけるわけでなく、製薬業界にも寄与すると専門家はいう。 「慎重さも必要であるが、たくさんの患者が苦しんでいる現在、本人が理解した上でケタミン服用を申し出るなら断る理由はないのではないか」とロドリゲスは言う。 脳科学ニュース・インデックスへ |