長く続かない麻薬の効果


2010年8月30日号
精神科医をやっていて特に困惑するのは麻薬常用だ。確かに麻薬は気持良くさせるが、それは最初だけであり高揚感は長く続かない。私の患者の一人は「先生、少し変に聞こえるかも知れませんが、コカインをやっていても、もう気持ちよくならないのです。でも止められない」と私に言った。

彼が30代の前半にコカインを開始した時は、始めると数日間は飲まず食わずで麻薬に耽った。この陶酔感はセックスさえも超越するものだったに違いない。しかし数ヶ月もすると陶酔感はなくなり、生活が乱れ職を失い妻も別れると言い始めた。そして私のところに来た。

彼もコカインを止められないと全てを失うことになると分かっているが止められない。もはや何の陶酔感も高揚感をもないのに何が良くて続けているのかと聞くと、私の方をぼんやり見るだけで理由を説明出来ない。この質問に答えられないのは患者ばかりでなく、精神科医も答えることが出来なかった。

麻薬の魅力は凄いのは分かる。コカイン、アルコール、アヘン等全て脳の中の報酬回路に働きかけてドーパミンを分泌させる。このドーパミンは欲望と喜びのメッセージを脳に送るから我々は陶酔感に浸る。

この報酬回路のおかげで、我々は食べ物を探し、異性をもとめて長い年月を生き延びてきた。問題は食べ物や異性がほど良い報酬を与えるのに対して、麻薬は強制的に多量のドーパミンを分泌させる。麻薬は自然の刺激より猛烈だから脳の報酬回路は乗っ取られてしまう。

でも神経細胞がドーパミンの洪水に慣れてしまうと始めた頃の陶酔感はなくなってしまう。陶酔感を再度経験したいと思って量を増やしても無駄になる。それでも強迫的に薬を求めるのは何故なのか。
私の患者からその一つの回答を得た。彼は6ヶ月間コカインを停止したが、ある日職場から家に向う途中猛烈に麻薬が欲しくなった。彼は事務所を出た直後に古い友人に出くわした。この友人こそが数年前に一緒に麻薬をやった間柄で、この瞬間に麻薬欲求が起きてきた。意識の上ではこの友人と麻薬はつながっていなかったが、彼の脳は忘れていなかった。

コカインは脳の報酬回路を乗っ取ると言うより、学習と記憶に強い影響力を持つ。脳スキャン写真による研究によると、麻薬用の器具を見ただけで麻薬が欲しくなるのが分かっている。コカインをやっているときに何処にいたか、何をしていたかの記憶が麻薬を呼び覚ます。この関連記憶は無意識の世界にも格納されている。

この病的記憶が麻薬常用の原因になっていて、麻薬を止めてかなり経って禁断症状が緩和してからも関連記憶が牙をむき、ある日突然麻薬が欲しくなる。
私は患者の脳の配線を変えることは出来ないが、少なくてもコカインを呼び起こすような環境を避けさせる指導は出来る。彼には麻薬を思い出させる場所、人のリストを提出させて、それらから遠のくように命令をした。その結果、家で麻薬をやることはなくなった。

しかし彼の問題はそれで終わらない。既に麻薬を絶ってから2年経つが彼の生活には輝きがなく何事にも興味を失ったように見える。これこそが近年報告されている麻薬の人生に長く及ぼす影響だ。

アメリカ国立薬物依存症研究所のノラ・ボルコー氏はPET脳スキャンを見せながら、メタアンフェタミン依存症の患者の脳を説明する。彼等の脳では健康な人に比べてある分野でドーパミン搬送体の数が25%減っていた。この搬送体は、ドーパミンを神経細胞に運び入れたりそこから運び出したりする役割をするから、減るとドーパミンの分泌が減り、報酬回路があまり働かなくなる。

怖いことにはメタアンフェタミンを止めてから既に11ヶ月も経っているのに搬送体の回復が見られないことである。私の患者はメタアンフェタミン患者ではないが、コカインも同じ作用を及ぼす。何年間ものコカイン常用で彼の脳ではドーパミン報酬回路が上手く働かない。そのために、何事にもはつらつさが欠ける。

結局健康な人には友達と夕食したり、美しい夕日を見るほど素晴らしいものはない。この数の減った搬送体が元に戻るかそれとも永久になるか誰にも分からない。何故危険を冒して麻薬をやって感動のない人生にしてしまうのか。結局のところ、麻薬で得られる喜びは空しい。喜びは間もなく消える。



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