2021年9月23日 |
アーロン・プレスリーは、大人になって以来、朝はベッドから起き上がる事も困難なほど鬱が酷く、抜け殻のような人生を過ごしていた。そんな彼がある日、ジョーンズ・ホプキンス大学が実施する実験的LSDセラピーを受ける決意をした。 LSDセラピーとは、ヒッピー文化で流行ったLSDを使って患者の鬱を治す療法である。彼はこの治療を受けて以来、霧がかかったような生活が一変し、人生の意味を感じるようになった。治療にはLSDの成分であるシロシビンを使う。シロシビンは毒キノコから抽出される幻覚成分で、飲むと人はギラギラした夢のような状態を経験する。地上の楽園のような状態になると言う人もいる。もしシロシビン療法が有効で政府の認可が下りれば、プロザック以来の新薬の登場になる。 鬱とは、無気力、疲労、慢性の不幸感を特徴としていて、世界では3億人が苦しんでいる。アメリカでも国民の7%に当たる1600万人が鬱を経験している。鬱は鬱病、躁鬱病、気分障害等が原因で発症し、3人に1人が治療に反応しない。幻覚キノコ療法はこの困難を突き破る可能性を秘めていて期待が大きい。 昨年JAMA Psychiatry誌に発表されたジョーンズ・ホプキンス大学の報告では、LSDの成分であるシロシビンは、従来の抗鬱剤に比べて4倍効果があるのが分かった。治療を受けた患者の3分の2が50%ほど鬱が緩和されて、一か月後には半数以上が緩解の判定を受けている。 主にアメリカとヨーロッパでシロシビンが注目されている。10か国300名が参加した2つの試験結果では、アメリカ食品医薬品局が画期的と評価している。もし政府が許可すれば一般に現れるのは早ければ2024年頃になる。 暗い過去 しかし、シロシビンには暗い過去があり、その応用に警笛を鳴らす専門家もいる。1960年代に流行ったヒッピー文化で、人々がLSDを乱用した結果、多くの自殺者を出した。政府もLSDを禁止したため、数十年の研究のブランクが生じてしまった。にも関わらず、シロシビンから得られる効果を捨てがたいとする科学者がいる。その理由は、現状では鬱治療が困難であること、脳神経細胞の動きの解明につながる希望があるためだ。 「シロシビンには、心の病気治療への新なアプローチが発見される可能性がある」とハーバード医科大のジェロルド・ローゼンバームは言う。 幻覚キノコは未開の人たちの間で数千年も使われていたが、西洋の医学に登場したのは1943年で、スイスの化学者であるアルバート・ホフマンが間違ってLSDを飲み込んでしまった時に始まる。 彼は直ぐ夢のような状態に至り、万華鏡を見ているような色の変化を経験した。彼はLSDが心の病の治療に使えるのではないかと閃いた。その後、ゴードン・ワッソンと言うマンハッタンに住む銀行家がメキシコのオアハカに行き、シロシビンを含有するキノコを採取して自分に試している。彼はその経験をライフ誌に15ページの記事で投稿した。 間もなく精神科医の中にシロシビンを治療に使う人も現れた。1960年代にはアル中患者にシロシビンを与えて、700人中半分の人が数か月間アルコール抜きの生活をしたという。シロシビンは不安症、鬱、死に直面した癌患者にも有効であるとの報告もあった。しかしLSDの乱用で信頼は間もなく崩れた。 以後、政府からの研究助成はゼロになったが、シロシビン応用の研究は続けられた。この薬物の特徴は、脳の神経細胞から突き出た部分にある蛋白に取りつくことだ。LSDの成分であるシロシビンはセロトニン受容体に作用して、セロトニンがセロトニン受容体に数時間滞留可能になる。普通は直ぐ受容体から離れるが、セロトニンが動かなくなると神経細胞の情報交換が狂ってくる。 しかしこの説明でもLSDがもたらす異常な色彩感覚、スピリチュアル経験を説明できない。1990年代の初め、幻覚物質を押す人々の努力で、アメリカ食品医薬品局がLSD規制の見直しをして、研究に限り使ってよい事になった。2000年代の中頃から有名な大学、例えばニューヨーク大学、カリフォルニア大学、 ジョーンズ・ホプキンス大学で、末期がん患者、薬物依存患者を対象に臨床試験をしている。 デフォルト・モード・ネットワーク 一方、脳スキャンの進歩により幻覚物質が与える脳の変化を視覚で捉えることが出来るようになり、LSDは脳細胞同士の会話に大きな影響を与えているのが分かった。特に計画、意思決定、推測等の高度判断に関わる回路に対する影響が大きい。視床網様核にも作用し、感覚信号の強さを変化させていた。 カリフォルニア大学サンフランシスコのロビン・カーハート・ハリスは、LSDはいわゆる”デフォルト・モード・ネットワーク”と呼ばれる脳内の神経ネットワークを閉鎖すると言う。このネットワークはわれわれの思考が流浪する時に活躍するネットワークだ。不安症、鬱状態の人では特に活性状態になっていて、お構いなしに嫌な考え、不吉な将来予測が押し寄せる。 専門家の中には、デフォルト・モード・ネットワークはフロイトの説明するエゴだと言う人もいる。エゴとは”私”に相当し、エゴにより記憶し、計画し、自分の内と外を認識し人格を統合する。 反芻思考 心の病気を患う患者に繰り返し押し寄せる不吉な考え、そして患者が求める偽の問題解決を精神医学では”反芻思考”と言う。ジェロルド・ローゼンバームによれば、反芻思考は鬱、薬物依存、強迫行為、不安症に共通していると言う。 プレスリーは、LSDにより反芻思考を停止させることに成功した。彼の頭を占拠して止まない魔の考えが停止したのだ。短期間ではあるが、あるがままの自分を発見し、不可能に見えた自然な自分を取り戻した。ウィスコンシン・マジソン大学のチャールズ・レイソンは、この現象をエゴからの解放と、無意識の表出と説明する。 「LSDは、脳内の感情と記憶の中枢である大脳辺縁系を解放するため無意識が現れたのだろう。印象があまりに強いと、あたかも外から来るように感じる」と彼は続ける。 偽の問題解決 「多くの心の病では、人は不安に駆られるため、安定を得ようとする。しかし得られる安定は間もなく壊れるから、われわれはこれを”偽の問題解決”と呼ぶ。患者は偽の問題解決に押し込められて出られなくなってしまう」と ジョーンズ・ホプキンス大学のマシュー・ジョンソンは言う。 偽の安定状態で反芻思考を繰り返す脳はまさに病気で、脳の活動が異常になっている。脳神経回路は変に固まって、他の脳細胞との会話をしない。すると脳はその柔軟性と敏捷性を失う。 「LSDは脳内ネットワークをリセットし健康なパターンを回復する」と元パーデュー大学のデイビッド・ニコルズは言う。 脳細胞の新生 最近はLSDが脳に影響を与えて脳は成長促進物質を分泌すると説明する人もいる。脳内に新たなネットワークを作るばかりでなく、脳細胞再生をしていると言うことだ。 イェール医科大学ではレーザースキャン顕微鏡を使ってネズミの脳を調べている。特に樹状突起スパインに注目していて、ここは神経細胞が他の神経細胞と交信する重要なポイントだ。慢性のストレスや鬱が交信部分の数を減らすことが知られている。 イェール大学の研究では、ストレスを受けたネズミにシロシビンを与えた所、萎びた樹状突起がもとに甦った。ネズミにシロシビンを一度服用させるだけで、神経細胞の連結が10%増加した。神経細胞の連結が増加すればネズミの行動も改善する。 「新しく出来た連結には、経験も蓄積されている」とイェール大学のアレックス・ウォンは言う。 人間の脳細胞をペトリ皿で培養してシロシビンを与えた所、脳細胞が新しい細胞を再生(神経新生)していたの報告もある。シロシビンがセロトニン受容体を一定時間onにするため、神経新生を促すホルモンが分泌されると説明する人もいる。この辺を逆行分析すれば、現在治療困難な心の病気の原因が分かるかも知れないとローゼンバウムは言う。 新しい生活 もちろん、プレスリーが精神科でセラピーを受けている時は、脳の樹状突起とかフロイトのエゴなど考えてもいない。彼は7歳頃の家族と教会に行った時を思い出している。二人の兄弟と悪ふざけをしている。教会の情景が変化して、自分の葬式が現れ、両親の葬式も現れた。彼の恋人との将来も考えている。彼はこれが幻覚であるのを知っていたが、あまりにも具体的で事実のように感じられた。 その後、数か月も過ぎるころ、何かが変化した。彼は家族、古い友人にも連絡を取る一方、ひげをそり教会の聖歌隊に参加する事にした。セラピストから、やる事を書きつけたリストを作成するよう言われた。そこには友人や親しい人に声をかけること、ジムに行って運動をすること、歌う、ピアノを弾く、学会の専門家と話す事等が書いてある。 「療法をする前は疲労困憊していて身動きが取れなかったが、鬱がいきなり消えて、夜が昼になった感じだ」と彼は言う。 LSD治療に参加したある拒食症の女性は、神の腕に抱かれる経験をしたと言う。もう一人は、職場で話す事も出来なかったのに、一回の療法で職場の同僚が奇妙に小さく見えたと言う。職場では自分も他人も一緒に感じ、自然に仕事が出来たと述べる。 失われた自分の再構築 カリフォルニア大学のチャールズ・グロッブは、2000年代の初めから癌末期患者にLSD療法を施してきた。多くの患者は強い苦痛と絶望、鬱、不安を経験するが、その彼らが幸せを感じ、人を恋しく思い、残された時間を大切にし始めると言う。 「重大な病気に見舞われると人は自分を見失ってしまう。LSDは失われた自分の再構築をする。LSDは存在に関わる問に答える薬なのです」と彼は言う。 幻覚経験は治療の一つに過ぎなく、幻覚が冷めてからが大事とジョーンズ・ホプキンス大学のコシマノは言う。治療セッションが終わった後に被験者は感想を書き、セラピストに向かって読む。セラピストは被験者に幻覚が意味するもの、それを今後どう実生活に生かすかを説明する。 「何もしなければ前の状態に戻ってしまいます。これを厳格に守らなければならない」と彼は言う。 クリニック外使用の危険 もしLSD療法が一般のクリニックにでも採用するようになったら、クリニック外での使用に目を配る必要がある。 治療困難な鬱病患者の治療しているロンドンの法人コンパス・バスウェーの創始者であるジョージ・ゴールドスミスは、特に念を押す。 彼は療法を実施するに当たって規制当局と打ち合わせをした。規制当局には、アメリカ国立精神衛生研究所の前の所長であるインセルも入っている。 現状ではLSDのクリニック外での使用は違法であるが、最近はLSD使用の合法化の動きが高まり、インセルは特に警戒している。LSDは人により精神症状を悪化させる場合があるからだ。 最近は数百のバイオテク企業、研究グループがLSDを研究していて、今や、LSD治療のゴールドラッシュだ。 コンパス・バスウェーでは、LSDが安全に使われるために厳しい手順を作成した。その中に、万が一に備えて専門家が患者のそばにいる事、セラピーを始める前に患者は準備会議に出席すること、セッションが終わった後もセラピストと連絡を保つ事等が書かれている。 「LSD療法には批判も多いが、得るものも大きい。悪い幻覚も治療の一ステップです」とゴールドスミスは言う。 ジョーンズ・ホプキンス大学で治療を受けたプレスリーは、「3年後も時々鬱を経験するが、以前のように凧の糸が切れたようにはならなくなった。今はどう行動したらよいか自分の体が知っている。普通の感情、熱情が戻ったようだ」とプレスリーは言う。 脳科学ニュース・インデックスへ |