トロウマ記憶は抑圧されるか 2003年11月13日 |
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フロイトの抑圧理論によると激しい心の衝撃を味わうと我々はその前後の記憶を忘れてしまうと言う。理由は辛い記憶を思い出して苦痛を味わいたく無い為であるとフロイトは説明する。精神科医の一部では治療を目的として忘れられた記憶を思い出させようと今まで試みて来た。 トロウマ記憶の抑圧は精神分析では当たり前であるが、今までの数多くの科学的研究にも関わらずその存在が証明されていなかった。トロウマ記憶の抑圧は科学的に興味があるだけでなく、犯罪立証の上でも見逃せない。催眠状態で回復した記憶、例えば子供時代に受けた性的虐待などの記憶はその十分な裏付け証拠が無くても人を刑務所に送り込む事ができるからである。そればかりでなく、犯罪現場を目撃した証人の記憶は犯人の特定に必須である。しかも目撃者の証言が食い違う事が多い。だからこそ不快な経験とその記憶の関係を解き明かすのが科学の重要な任務なのである。 今週号のthe National Academy of Sciencesの会報ではロンドンユニバーシティーカレッジのブライアン・ストレンジ氏が面白い報告をしている。ここでは被験者の虐待記憶を調べるのでなく、コンピュータースクリーン上に流れ出る言葉を被験者に見せて実験している。 不完全な記憶 殺人とか大虐殺等の言葉は不快な感情を引き起こす。集会、会議、打ち合わせ等の言葉は感情的にニュートラルである。実験では前もって何をするか教えられていない被験者はコンピューターのスクリーンに流れ出る言葉を見つめる。言葉は一回に一語ずつ現れて、全てを見た後に被験者は何の言葉があったかを思い出すように言われる。今までの実験では感情揺さぶる言葉のほうが中立な言葉より良く覚えている場合が多い。ストレンジ氏が知りたいのは中立な言葉と感情を伴う言葉を流した時に、感情を伴う言葉の近くにある中立な言葉をどれほど覚えているかであった。実験では感情を伴う言葉の直前にある中立な言葉は、そうでない場合に比べて思い出せない場合が多かった。 過去の実験では感情が伴うと記憶力が上がると判明している。理由は感情をつかさどる脳である扁桃体にストレスホルモンのノルエピネフィリンが作用する為と説明されて来た。そこでストレンジ氏は更に進めて、激しい感情に伴う記憶喪失が同じメカニズムにより起きているのか解き明かそうとしている。 扁桃体に作用するノルエピネフィリンをプロプラノロル(propranolol)と呼ばれる薬品で活動を抑えることができる。そこで被験者にプロプラノロルを飲んでもらいテストした。すると感情を伴う言葉と中立な言葉では記憶に違いが見られなかった。同時に感情を伴う言葉の直前に現れた中立な言葉の記憶は改善された。 研究チームは更にアーバック・ウィーズ病と呼ばれる遺伝子欠陥により引き起こされる病気の患者も実験した。アーバック・ウィーズ病とは遺伝子欠陥により扁桃体に障害を受ける病気である。実験前に脳スキャンで彼女の脳を調べ、確かに扁桃体の欠損を確認している。また彼女の認識力、知性、注意力、短期長期の記憶力を調べたが全て問題の無い事が分った。実験では感情により彼女の記憶は左右されない事が分かった。感情を伴う言葉も中立の言葉も同じように良く記憶されていた。もちろん言葉の順序にも影響されなかった。 記憶のギャップ ストレンジ氏が今実験している記憶とは明示的記憶と呼ばれるものであり、事実、経験あるいは知識と関連していて、意識的努力で回復でき、言葉で表現できる記憶である。この種の記憶は幾つかのステップを経て形成されると考えられている。最初のステップは新しく学んだ情報を神経細胞同士の連結に移し変える段階である。このステップでは脳の構造に永続的変化は起きない。2番目のステップでは脳の構造に変化が生じる。即ち脳神経細胞間の連結作成でなく連結を解消する。このステップには遺伝子が関与し、新しい蛋白質が形成される。感情に伴う記憶喪失はこの生化学的脳の変化によるものでは無いかとストレンジ氏は推測している。 この推論を支持する論文はハーバード大学のロジャー・ピットマン氏のPTSD研究にも見られる。ピットマン氏は最近プロプラノロルをもちいてPTSD発生を防止できるかどうかの実験を行った。PTSDとは飛行機事故とか戦争などを経験した人がその後、激しい不安発作を経験する病気である。彼はトロウマを起こす場面で脳から分泌される過剰のストレスホルモンがこの強い記憶を形成しているのではないかと推測している。記憶を形成するには時間がかかるから、このホルモンの活動を抑制する物質をトロウマの直後に作用させれば激しすぎる記憶を弱める事ができるはずである。そしてこれが事実であるのが証明された。激しい心的衝撃を受けた直後にプロプラノロルを受けた患者は一ヵ月後PTSD症状の緩和が認められた。 これらの実験結果をみると一見矛盾しているように見える。ストレンジ氏が観察した事実は感情動揺の直前記憶喪失であるのに対して、実際に望ましいのは事件そのものを全部忘れてしまう事であろう。しかし研究室での中立な言葉を用いる実験は児童虐待や戦争の経験とは大分違う。はっきりしている事は記憶喪失、あるいは記憶の作成にはストレスホルモンが関与していると言う事だ。 記憶も含めて生命の全ては進化の結果獲得されたものであり、あるものを忘れた方が良い場合は生物はその方向に進化すると考えられる。確かにPTSDを見ると、人はこの種の記憶を忘れた方が良さそうだ。実際多くの人はPTSDを起こさず回復している。だからPTSDとは記憶を制御する機能に問題が起きた結果と解釈できる。 だからフロイトがトロウマ被害者が記憶を抑圧して忘れ去っていると説明しているのは部分的に正しい。しかしそのメカニズムについては判断が間違っている。未だ部分的にしか分っていないが、記憶は抑圧されたのでなく、最初から形成されなかったと考えるべきであろう。そうならどんな精神分析技術をもちいても最初から無い記憶を戻せるわけは無い。裁判でも目撃証言の信憑性には十分注意をを要するし、セラピーで子供の頃の記憶を思い出させる場合も同じ注意が必要であろう。 脳科学ニュース・インデックスへ |