微生物叢と心

2023年1月23日


人間の消化器には数兆とも言われる数の細菌、菌類が住み着いていて、その数は人間自身の細胞の数より多い。この体に住み着く微生物群を微生物叢(そう)と呼び、人間が生産できない物質を生産し、消化から新陳代謝、免疫まで影響している。

最近、微生物叢と脳はホットラインでつながっているのではないかと注目されている。われわれの心は考えている以上に微生物から影響を受けているらしい。もしそうなら、鬱、不安、統合失調症の解決に微生物を使えないか。特に今はコロナパンデミックで世界の人は精神的に救いを必要としている。

消化器と脳はつながっていると知るきっかけになったある有名な事件がアメリカにあった。
時は1822年、アレクシス・セイント・マーチンと言う若い取引業者がミシガン州にあるマカノー島の交易所近くをぶらぶらしていた時、彼は誤って自分の銃を暴発させてしまった。わずか1mの距離からの弾丸は彼の腹を切り裂き、肺の一部、胃の一部が露出した。消化器の中にあった食物までが傷口から出て来る始末であったが、軍医のウィリアム・ビーモントが駆け付け手術を施し何とか助かった。

手術は数度に及び、回復には一年を要したが、胃に出来た穴を塞ぐことはできなかった。この瘻孔が長く世に伝わる伝説になったわけで、ビーモントの優れていたのは、瘻孔を見逃さず、人間の消化の仕組みを発見したことだ。

今だったら許されないだろうが、ビーモントの観察のおかげで人の消化器はその人の感情に大きく影響されるのが分かった。すなわち脳と消化器は独立しているものではなく、互いにつながっていて影響を与えている。これにより彼は消化生理学の父として賞賛されることになる。

「次第に腸内細菌は脳に影響するのが分かって来た。それは人間ばかりではなく、動物全般に言える」とカリフォルニア大学のイレイン・シアは言う。彼女はこの方面でトップの研究者で、微生物と胎児の脳、認識力、癲癇、鬱等を研究している。
「一部の微生物は免疫系を使って神経細胞に命令する。微生物は脳を発達させセロトニンを分泌させている」と彼女は言う。

「今の医学は専門化していて、脳なら首の上だけだが、脳は体全体の一部だ。微生物は人間が現れる前から存在していたし、人間も微生物と共に生きて来て、互いに恩恵を受けつつ進化して来た。脳も当然微生物の影響を受けているはずだ。もし微生物が脳に影響しているなら、微生物を利用して問題解決できないか」とコーク大学のジョーン・ライアンは言う。

もう一つ見逃せないのは腸と脳を結ぶ迷走神経の役割である。乳酸菌ラムノサスJB1は、鼠の鬱状態を好転させるが、迷走神経を抑制すると効果が消えることから、細菌は迷走神経を通して脳に影響を与えているのが分かった。

腸内に微生物が存在しない鼠を人工的に作りそれを普通のネズミと比較すると、微生物が存在しない鼠は臆病で非社交的であった。腸に微生物がいない鼠と抗生物質で腸内の微生物を少なくした鼠では、不自然な行動が見られ、学習、記憶能力も劣っていた。抗生物質を与えるとゼブラフィッシュ(縞模様の小魚)でも群れを作る行動が減った。

進化を考えれば、細菌はその宿主が社交的である方が有利なはずだ。
「微生物を使って精神の健康を回復する医療をサイコ・バイオティクスと言い、最近注目されている」とライアンは言う。但し細菌ならどれでも人間の心に影響を与えているかと言えばそうではない。人間の側にも条件があるからだ。
「どの細菌にどの効果があるかはまだまだ分からない。それでも親から受けた遺伝子を云々するよりハードルは低い」とライアンは言う。

オックスフォード大学のフィリップ・バーネットは、微生物叢に起因する心の問題は、植物繊維を腸で分解する時に短鎖脂肪酸である酪酸を生産する細菌に欠けていることが多いと言う。実際、2019年に行われたルーベンカトリック大学のミレーア・バレコロマーによる研究では、酪酸生産菌と健康を調べたところ、特にフィーカリバクテリウムとコプロコッカスバクテリアは人を健康にしていた。また、鬱状態の患者ではディアリスター、コプロコッカスが激減していた。

「微生物叢が変化したから心が変化したのか、心が変化したから微生物叢に変化が生じたかは分かってない」とバーネットは言う。

2019年にバーネットとオックスフォード大学のリタ・バイオは、プロバイオティック・サプリメント(善玉細菌を直接飲む)の軽、中程度の鬱に対する効果を発表した。被験者の鬱状態はPHQ-9と呼ばれる標準調査法で評価している。

被験者は偽薬あるいは市販のプロバイオティック・サプリメントを4週間飲む。このサプリメントには14種類の細菌が含まれていたが結果は素晴らしく、飲んだグループでは鬱が大幅に改善して不安も消失した。71人の被験者と研究は小規模ではあるが、微生物による心の病気の治療の可能性を示している。
「われわれの発表の反応は凄かった。従来の抗鬱剤に不満な人が沢山いる一方、昨今のパンデミックで人は何か心を明るくするものが欲しかったのでしょう」とバーネットは言う。

バーネットは微生物の精神病への影響も調べている。精神病では幻覚、妄想、現実乖離ばかりでなく、認識困難、注意散漫、記憶困難、問題解決の低下がみられる。既存の薬である程度幻覚、妄想は抑えられても認識力の回復は難しい。

バーネットの研究では、精神病の患者にプレバイオティック(善玉細菌の成長を促す)を処方したところ、認識力が改善したと言う。この研究では被験者は既に薬を飲んでいて幻覚、妄想は消えていたが認識力の低下は改善していなかった。12週間、被験者に偽薬とプレバイオティックを処方して、代謝、免疫、認識力を測定した。結果は、プレバイオティクを受けたグループでは注意の維持、問題解決能力の向上が見られた。しかし免疫、代謝に変化があったかどうかは確認できなかった。

腸内細菌が認識力に影響をあたえるかどうかの面白い調査がある。英国では、NHS(国民健康サービス)で働く看護婦14,542人に対して抗生物質がどのような影響を与えるか数年間調査した。それによると、抗生物質を2か月以上飲んだ看護婦では、飲んでない人に比べて学習、作動記憶、注意力が少し劣っているのが分かった。しかも7年後の時点でも未だ回復していなかった。

一方われわれ自身も腸内細菌に注目したら良いだろう。植物繊維質を多く含む食事は微生物のよい培地になるし、発酵食品であるキムチ、納豆、発酵ミルク等は善玉細菌を多く含む。ライアンが調べた45人の人たちでは繊維の多い食品、発酵食品を多く食べた人たちは、そうでない人たちに比べてストレスを感じる事が少なかった。

「発酵食品の良い所は、専門店に行って高いお金を払う必要がないことだ。心を健康にする手段は誰でも手の届くところにあるべきです。微生物は一緒に旅をする友達でもある」とライアンは言う。



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