意識の謎


2007年1月19日

その若い女性は自動車事故から回復したが、脳に重い傷を負ったために、最初の5ヶ月間は目を開けることが出きても、視覚、音、触覚に反応しなかった。神経学の専門用語で持続性植物状態と言い、実際見かけ上植物人間になってしまった。

しかし、驚いた事に英国とベルギーの専門家が彼女の脳をMRIでスキャンすると、言葉に対して彼女の脳の言語野が反応し、彼女に彼女の部屋に入る事を想像するように言うと、空間を導く部分と場所を認識する部分が反応した。次にテニスをしている状態を想像するように言うと、動きを指令する部分が反応した。正しく彼女の脳は健康な人の脳と変わりなく、彼女の意識は明滅していたのである。

彼女には、見舞いの家族が声をかけて彼女の意識を戻そうとするのが分かるが、自分に意識があるのを伝えられない。時々声をかけられた時に意識は戻るがまた昏睡状態に入る。この状態の時、我々は死を選ぶであろうか。英国とベルギーの専門家の発表は、植物状態にある患者に対する扱いに重大な問題を投げかけた。このような事実を見ると、以前、フロリダ州で植物状態にあったテリー・シアボさんのケースでの、生命維持装置を外すか外さないかの論争が子供じみた演出に見える。

去年の9月に報告されたこの発表は、意識の科学に取って大きな衝撃となった。意識の論議は今まで神学論争か学生の論争程度に扱われていたが、今や立派な認識の科学になった。意識とは何であるかについて、ある程度合意が成立してはいる面もあるが、あまりにも混乱していて、永久に解決しないであろうと言う悲観的見方もある。理由は人間とは一体如何なる存在であるかの問いに回答が見出せないでいるからである。

意識を科学すると、喜びと悲しみの振幅が激しくなる。デカルトが「意識の存在は明白な事実である」と言っているし、多くの宗教は意識を魂の中に見て、魂は肉体が死んだ後、体から抜け出し相応の報いを受けるか、世界と合体すると説明する。ウディ−・アレンが「私は自分の仕事で不死不滅になるよりも、不死そのものが欲しい」と言っているが、正に我々に取っては意識は生命そのものである。他人も自分と同じく苦しみ幸せを感じる生命であると知る事は、道徳の本質である。

意識のような難しい問題を扱うには科学が重要な役割をする。意識は必ずしも言葉には拠らないのは、赤ん坊、動物、脳に障害を受けている人を見れば分かる。彼等は無感覚のロボットではなく、我々と同様意識をもつ人であり動物である。又、意識は自己確認と同じ種類のものでもない。例えば音楽、運動、性的興奮で我を忘れる事もあるが、意識を失って倒れてしまうのとは違う。

意識を考察するには、哲学者のデイビッド・チャルマーズが名づけて、”易しい問題”と”難しい問題”という2つの問題がある。。”易しい問題”とは、例えば癌を治すとか宇宙飛行士を火星に飛ばすとかは、専門家は何をどうすれば良いかを知っていて、これを”易しい問題”と意識の専門家は言う。十分な予算をつけて研究やらせれば、今世紀中には可能であろう。

”易しい問題”とは具体的になんであろう。”易しい問題”こそがフロイトを有名にしたのであるが、それは意識と無意識の違いを説明する事である。例えば、空想、計画、楽しみ、不満等、頭に浮かぶ考えは意識であり、我々はその意識により行動を決定する。心拍とか、言葉を話す時の順序、鉛筆を持つ時の筋肉の伸縮の決定等はコントロールできないから、これを無意識と呼ぶ。これらの中枢は脳の何処かにあるはずであるが、意識回路からは隠されていて自分ではどうにもならない。

”易しい問題”とは、無意識と意識を分離させ、相関関係を明らかにし、どのように意識が作られるかを説明する事である。

一方”難しい問題”とは、我々の頭の中にどうして意識と言うものが存在するのか、何故第一人称とか主観的経験があるのかを問う問題である。緑は赤とは違う。緑と言えば緑色の動植物を思いつく。「ああ、それは緑だ」と我々は言う。確かに緑に見えるし、他の色には見えない。ジャズトランペット奏者であるルイ・アームストロングがジャズとは何かと聞かれて「ジャズとは何かと聞かれても答えられない」と彼は言う。

”難しい問題”とは、主観的経験がどうして脳の回路から出来上がって来るかを説明する事である。説明とは一体どんなものか、大体それを説明する事が科学なのかどうかもはっきりしない。実際、この問題は謎に包まれている。

”易しい問題”も”難しい問題”も未だ解決されていないが、両問題の本質については専門家間で合意が達成されつつある。その中でも最も異論が少ない部分は、門外漢には大変衝撃が大きいものであった。フランシス・クリックはそれを途方も無い仮説と言うが、我々の考え、感覚、喜び、痛み等の意識は全て霊妙な魂に存在するのではなく、脳の生理学的活動に存在すると言うものだ。

機械としての脳
専門家は脳から霊魂を追い払ってしまい興醒めではあるが、専門家がそうする理由は、どう考えても意識が脳活動に結びついている証拠があるからだ。MRIを使って脳を調べると、その血流量からこの人が何を考えているかが分かる。顔を考えているか、場所を考えているか、見ているのは瓶であるか靴かまで分かる。

又、意識は実験的に外から電気刺激を加えても作り出す事ができる。例えば、脳の手術中に電気刺激を脳に与えると、部屋の中での歌声、子供時分の誕生パーティーなどの幻影、幻聴を起こす事が出来る。化学物質も同様の効果があり、カフェイン、アルコールからプロザック、LSDまで、人の考え、感覚、視覚に強い影響力を持つ。癲癇を治療するために脳梁を切断する手術があるが、この手術をすると、あたかもナイフが魂を2つに切り裂くように意識は2つに分裂する。

脳の生理学的活動が停止すると、我々が見る限り人の意識は停止する。死者の魂に語りかける試みを1世紀前の科学者が真剣に試みているが、安っぽい手品に終わっている。臨死体験に良くある自分が自分の体を抜け出て天井から見る感覚は、魂が体から出る現象ではなく、目と脳での酸素不足が起す幻覚であるのが分かった。去年の9月にスイスの神経学者が、実験で脳の中の視覚と体感覚が収斂する部分を刺激して”魂が体を抜け出す感覚”を繰り返し再現している。

意識がコントロールすると言う幻想
意識の科学でもう1つの驚くべき成果は、我々が直感的に”私”というものが存在し、私が脳の中央制御室に座っていて、入ってくる全ての情報を見、必要な筋肉の収縮命令を出す考えているが、これが誤りである事を指摘している事だ。意識とは、脳の中を走り回る情報と、それに反応する神経細胞のシグナルの総合体であるらしい。神経細胞の反応同士が注意を競い合い、1つの反応が他の反応を凌駕すると脳はそれを合理化判断し、あたかも一人称の自分が全て判断していたような印象を作り上げると言う。

次の実験を見ると面白い。この実験は真面目な目的をもっていないのであるが、被験者にある説明をして電気ショックを与える。最初のグループにはもっともらしい理由、例えば、この実験では学習プロセスを研究しますと説明し、次のグループには曖昧な理由、例えば単に興味があるからと説明する。すると最初のグループは、曖昧な理由を説明されたグループより電撃が強かったと報告する。多分、曖昧理由のグループは電撃が強いと言うにはお恥ずかしいと感じたからであろう。では何故電気ショックを受けたかと聞かれると、昔ラジオをいたずらし感電には慣れていると言うような言いわけを言う。

合理化されるのはなにも不十分な状況下ばかりでなく、我々の現実の経験の中にも起きている。我々の目は、取り巻く世界全て見ていると思っているが、凝視している焦点の外側はかなり怪しい事実を知るべきだ。例えば、貴方の手を見ている視線方向から10cm位離してかざして、その指を数えて見たまえ。

もし誰かが、貴方が瞬きするたびにあるものを見せたり引っ込めたりしたら(実験では2つの画像を交互に繰り返して見せる)変化を見るのは容易ではないはずだ。一般的に、我々の目の焦点は必要に応じて1つのものから次のものに動く。すると我々は全てそこにあったと間違って認識するが、これが我々の視覚と意識の過大評価の一例である。

我々は自由意志で何かを決定し行動すると思っているがそれも怪しい。心理学者のダン・ウェグナーの実験では被験者が鏡の前に座り、彼の後ろにもう一人の人が座り腕を被験者の脇下から差し出す。あたかも被験者が自分の腕を動かしているかのように動かすのだが、もし被験者が後の人に指図している録音テープを聞くと、あたかも自分の腕を動かしているかのような錯覚にとらわれる。

脳が取り繕う姿は脳に障害がある時にはっきり出る。例えば、障害を受けていない脳の部分が障害を受けている部分から発する信号を合理化説明する姿である。自分の妻を即座に判断出来ない、脳に障害を受けた患者が妻を見て、「妻のように見えるしそのように振舞っているが、あの人はプロの詐欺師ではないか」と言う。病院にはいるが自分の家にいると信じて疑わない患者は、病院のエレベーターを見せられて「こんなエレベーターを設置すると、どれ位費用がかかるか君はしっているのかね」と言う。

次に、捉える事が出来る意識と捉える事が出来ない無意識が何故あるか考えてみよう。1つの説明として情報の過剰がある。

今日、パソコン、テレビ、ラジオ、新聞から溢れる情報で人は圧倒されているが、同様に脳活動の全てが意志決定回路に送られると、回路はパンクして麻痺してしまう。それを避けるために我々の作動記憶(working memory)や注意には、次に何をするかに必要な情報だけが届けられている。認識心理学のバーナード・バーズ氏は意識を黒板に例え、意識は脳の進行状況を書き込む黒板で、それにより状況をモニターする事が出来ると言う。

自分自身の嘘を信じる
無意識の存在は多分戦略的な意味であろう。進化生物学者であるロバート・トリバー氏は、人は自分を理性的で、善意のある適格者として売り込みたい衝動があると言う。最大の説得は自分の嘘を信じきる事であり、多少の混乱や自己矛盾に直面しても、己の嘘を信じきっていれば嘘はばれない。ならば、脳は危ういデータ−を意識プロセスから隠して、人との関係でばれる事が無いようにすれば良いわけで、時々現実からあまりかけ離れないように必要に応じて無意識から取り出す。

脳自身は一体どう動作しているのだろうか。何千億の神経細胞が信号を出し合っている中で、自意識を何処に専門家は求めるのであろうか。その方法として、我々の注意が移動する時に脳のどの場所が明滅するかを観察する方法がある。具体的には”左右視覚の競合”実験と言うのがあり、片方の目には縦の模様を見せて、もう一方の目には横の模様を見せる。左右の目は意識で競い合い、縦縞を数秒見た後に横縞を数秒見る。

それを簡単に実験するには、紙を丸めて右目にあてがい、白い壁を見ながら同時に左の目の前には自分の手をかざす。すると手には白の穴が見えるが直ぐ消えて又現れる。

サルも視覚の競合関係を経験する。知覚が移動する度にボタンを押すようにサルを訓練させ、一方彼等の脳には電極が装着されていて脳の変化を逐一記録する。神経学者のニコス・ロゴセティス氏はこの実験で、サルの後頭部にある視覚の第一中継点は全然反応しなかったと報告している。代わりに更に奥にある、首尾一貫した物体を追い求める領域が反応した。この脳の深い部分が意識のスクリーンに近いが、実験により意識とは感情と決定に関わる脳の中枢に存在するらしいのが分かった。

脳波
意識は脳のある特定部位に認めれらるばかりでなく、波でも測定される。脳電図(electroencephalograph EEG)で測定した脳波の周波数が、脳皮質(しわがある部分)と視床(情報の入力出力の中継センター)の活動の様子を現している。大きなゆっくりした規則正しい波は昏睡状態か麻酔状態あるいは夢無しの熟睡状態を示していて、先端のとがった小さな早い波は覚醒状態又は警戒状態を示す

この脳波は、単なる電気器具等から出る雑音とは違い、多分意識と関連していて、色、形、動き等の脳の動作の現れである。言わば無線交信で発信機と受信機が1つの電波に同調するように、左右視覚の競合実験で調べると、競合に勝った方の目の神経細胞の脳波は同期して振動しているのに対して、競合に負けた方の目の神経細胞の脳波は同期を停止して減衰する。

こうして、意識の”易しい問題”としての問題は解決に向かっているが、神経細胞の相互関連がどうして我々の内部経験としての一人称の意識を形作るかの”難しい問題”は未だ解決していない。

”難しい問題”に取り組む
”難しい問題”を解決するためには、先ず貴方と私が緑と言った時に、一体同じ緑を見つめているかを考えて見る。2人とも草の緑と説明するが、貴方の緑は紫に近い緑を言っているかも知れない。

あるいは一見我々と同じ行動をするが、実は感じる意識が無い物体(ゾンビ)がいると考えてみよう。映画のスタートレックでは、役人がダータ少佐を分解調査しようとして、単なる機械の分解なのか、知覚を持った生命の分解なのかで激しい論争が起きている。

”難しい問題”を魂を戻す入り口と言う人もいるが、意識のミステリーを魂のミステリーと言い換えるに過ぎず、言葉遊びに終わる。

ダニエル・デネットのような哲学者は、”難しい問題の存在そのものを否定する。ゾンビ(正体不明の物体)とか逆転した色の存在を考えるのは時間の無駄だという。意識を理解しようと、例えばどの波長が人を緑と感じさせるか、緑を見て何を人は感じるかを調べようとすると、全ては脳の情報プロセスに行きつき、”易しい問題”に戻ってしまう。結局最後は己の否定になり、振り出しに戻る。

専門家は、今はこの”難しい問題”が解けなくても、何れ”易しい問題”を理解する事により解決するであろうと考えている人もいる。でも”易しい問題”を研究して”難しい問題”を解決する事はあり得ないとする専門家もいる。

脳の生理にのみ意識を見るのは、肉体への狂信になり、スタートレックのダータ少佐の意識を拒否したのと同じになる。又、意識を単なる情報プロセスと捉えると反対方向に行き過ぎて、サーモスタットや計算機が意識作るような事になる。これはどんな人にも受け入れられないであろう。異端数学者のロジャー・ペンローズは、量子力学がこの問題を将来解決するであろうと言ったが、私には量子力学が意識とおなじ位奇妙であるから、奇妙同士で量子力学が解決するかも知れないとも思う。

哲学者のコリン・マッギンは、”難しい問題”を考える時に我々が混乱するのは我々の脳の気まぐれとする。人間の脳は進化の産物であり、動物の脳がその能力に限度があるのと同じく、人間の脳にも限度がある。我々の脳は100種類の数を記憶できないし、7次元の空間を見ることも出来ない。同じように、外部から単なる情報処理に見える物が、内部では主観的経験となって現れるかが、我々には説明できない。そこで私は、何時の日かダーウィンかアインシュタインの生まれ変わりが新しい理論を持って現れて、今までの問題を一挙解決するのを期待している。

”易しい問題”、”難しい問題”の解決がどうなろうとも、専門家は意識を脳の活動とするであろう。しかし素人にはこの考えは恐ろしい。肉体の死はあっても魂は存続するとした宗教の教えは消滅し、この世でもあの世でも我々が選択の自由を持つ存在であるの信念もなくなってしまう。トム・ウォルフェは2000年のエッセイ「残念、貴方の魂は死んだ」で、もし科学が魂を抹殺すると、その後には毒々しいカーニバルがやって来て、”全ての価値の消滅”の言葉でさえ迫力がなくなってしまうだろうと言っていた。

私はむしろ、意識の生物学的理解が穏健な道徳をもたらすであろうと思っている。意識の生物学的理解により、人間の苦しみを新しい治療で救う可能性があるばかりでなく、意識の存在が人間ばかりでなく生物全般にあると理解できるようになるからである。

哲学を哲学101で習うと、意識は己にだけにあると信じるようになるが、自分以外あらゆるものの意識の否定は、何も哲学の訓練場だけにあるのでは無い。それは我々人類の長い歴史で余りにもありふれた光景であった。しかし、一度我々の意識が脳による生産物であると理解すると、その同じ脳を持つ他人の意識を否定するほどおろかな事はないと気づく。ベニスの商人の中でシャイロックが「ユダヤ人には目がないとでも言うのか」と問う。現在ではこれをアラブ人、アフリカ人、赤ん坊、犬、あるいは脳皮質や視床に言い代えてもよい。我々は皆、同じ肉体で出来た脳を持っているのだから、苦しみは共通しているはずである。

その事実を考えるなら、来世の至福を保証する教義は幸せにするものでは無いと分るであろう。何故なら、そのような教義は必然的にこの世の生命をおとしめるからだ。来世で報われる事を信じて世界貿易センタービルに突っ込んだテロリストを見れば分る。

時々我々は「人生は短い」と言いながら無駄な論議を止めたり、子供に時間を無駄にしないよう注意する事があるが、あらゆる瞬間は大変貴重な意識の瞬間であるとすれば、我々は無駄な時を過ごしてはならないのに気づく。

スチーブン・ピンカーはハーバードの心理学の教授であり、言葉の本能の著者でもある。



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