環境か遺伝か 2003年5月25日 |
昔から論争されているのに人間を形作るのは遺伝か環境かの議論がある。同じ論争が2001年2月11日号のロンドンオブザーバー紙で又持ち上がった。 この考えは先ず科学者に影響を与え、胎児の成長から進化の説明、あるいは同性愛の説明にまで及び、広範に従来の考えを一新する。最終的には教育、医学、法律、宗教と社会全体にこの考えは及ぶ事になろう。ダイエットをしている人には,脂肪、炭水化物、蛋白質のどのような組み合わせが体重減少に効果的か。我々がもし新しい自由の意思理論で学習すると、我々は自分で自分の道を選ぶ事になる、と主張する神学者も現れるかも知れない。500年前にコペルニクスが地動説を発表以来の大変化が科学の世界に起きると予想される。 この衝撃を和らげるには今までの考えを捨てて、心を大きく構えなければならない。新しい世界では。遺伝子は我々の行動を操る操り人形師では無く、反対に我々の行動により操られている操り人形の方になる。。本能は学習の正反対でなく、学習こそが本能より変更し難く、遺伝は環境に順応するように出来ている。 例えば蛇の例を取れば、蛇恐怖は人間一般にある恐怖であるが、進化学的には極めて当然で、蛇に噛まれてから学習するのでは遅すぎる。それでもサルを使った実験から、サルの蛇への恐怖は、他のサルが蛇に恐怖する場面見ないと学習出来ない事が分かった。恐らく人間も同じであろう。サルに蛇を恐れさすのは簡単であるが、花に恐怖させるのは殆ど出来ない。だから我々が遺伝的に受けるのは蛇恐怖でなく、蛇に恐怖を発生しやすい傾向である。これはある種の環境学習である。 近年の驚異的遺伝学の進歩を述べる前に、過去の生まれか育ちかの間違った二者択一論法が、どれほど我々の思考を曲げてしまったかを理解するのも重要であろう。人間の性質が生まれながらのものか、あるいは学習によるものかはプラトンやアリストテレスが既に論じていた難問である。経験主義哲学者であるジョーン・ロッケやデイビッド・ヒューム等は人間の心は経験により形成されると主張し、ジャン・ジャック・ルソーやイマニュエル・カント等は人間の性質は生まれながらの不変なものと主張している。 現在まで及ぶ論議に火をつけてた最初の人物は、チャールズ・ダーウィンの従兄弟であり、風変わりな数学者でもあるフランシス・ガルトンである。彼がNature−Nurture (遺伝か環境か)の言葉を作り出した。所でNature−Nurture はシェークスピアの頭韻法を拝借していて、又シェークスピアはエリザベス朝時代の学校の先生であるリチャード・マルカスターから頭韻法を盗用している。 ガルトンは人間の性格は経験から出来上がるのでなく、生まれつきであるとはっきり述べている。同時に哲学者のウィリアム・ジェームズは人間は動物以上に本能を有していると述べている。 20世紀の初頭は遺伝子説が環境説を支配した。第一次世界大戦の後、3人の学者が社会科学を環境から説明を試みた。ジョーン・B・ワットソンは、イワン・パブロフの実験で証明された犬の条件反射が、人間の学習でも起きているのか論証しようとした。ジークムント・フロイトは子供に対する両親の影響、幼い頃に心に受けた傷に注目した。フランツ・ボースは人種的違いは歴史と経験、それに環境によるものであり、生理学や心理学で説明されるものでは無いと説いた。 ガルトンの人間の性質は生まれつきとする考えは優生学へと発展した。優生学(Eugenics)の言葉はガルトンが作り出した言葉であるが、ナチスがこの言葉を好み、大規模の障害者やユダヤ人の虐殺につながった。この悲劇を連想する為に、20世紀の中頃は人間が生得的であるとする説は退けられた。 しかし1958年に2人が遺伝子の側に立って反論を開始した。一人はノーム・チョムスキーであるが、行動主義者のB・F・スキナーの書いた本を論評しながら、言語は試行錯誤では獲得出来ないと主張した。人間は生まれながらにして、文法能力を身に付けているはずであると。もう一人のハリー・ハーローは簡単な実験で証明した。赤ちゃんのサルが、柔らかい布で作ったお母さんモデルと、針金で作ったお母さんモデルのどちらを好むかテストをした。すると、針金の母親モデルがミルクを差し出すにも関わらず、柔らかい布のお母さんモデルを好んだ。ある種の選択は生まれながらにあるの証明である。 1980年代になると動物のゲノムの解読に一部成功し、そこから重要な発見があり科学者を驚かせた。ハエの遺伝子を研究していた科学者が、ホックス遺伝子と呼ばれる小さな遺伝子を発見した。この遺伝子が、ハエの成長の極初期の段階で、体の骨格を決める情報を持っているらしいのが分かった。例えば、何処に頭を置き、足を置き、羽根を置くかと言う情報である。しかも、ネズミを研究している学者からも、ネズミにも同じようにホックス遺伝子があり、遺伝子構造が似ていて、作動する目的が同じであると報告があった。そして最後に人間のゲノムを見たらやはりそこにホックス遺伝子が存在した。 ホックス遺伝子も他の遺伝子と同じように、体の各部により、又時間の相違により、スイッチがオンとオフになる。体の何処で、何時、どの様にスイッチをオン、オフするかにより、遺伝子は微妙に違う効果を出す。このスイッチ部分はDNAの連なりであり、遺伝子の上流部に位置していて、プロモーターと呼ばれている。 プロモーター部分の少しの変化はホックス遺伝子の作用に根本的変化を起こす。例えば、ネズミは短い首と長い胴を持っている。鶏は長い首と短い胴である。ネズミと鶏の首と胸の部分の脊椎骨を数えると、ネズミは首に7個、胸部に13個あるのに対して、鶏では首に14個、胸部に7個あるのが分かる。この違いはホックス遺伝子のC8と呼ばれる部分にあるプロモーターに起因する。何故なら、このプロモーターは体の胸部の構造を決める情報を持っているからである。 ある意味ではがっかりである。何故なら、巨大なゲノムの構造の中からプロモーター部分を発見するまでは、チンパンジーと人間の違いを作るものが何であるか分からなかったからである。しかし朗報でもある。この発見により、体は作られているものでなく変化するものである、と言う忘れ勝ちな単純な事実をもう一度我々に確認させたからである。ゲノムは体を作る青写真では無い。 この遺伝子に関する新しい考えは人間を考える上でどう影響したか、下の4つの例で見てみよう。 言語 愛 反社会的行動 同性愛 ここで確認するが、この種の環境と遺伝の相互影響は昔から指摘されていた。有名な例では、パブロフの条件反射がある。
かれは、今から丁度1世紀前の今年に、自分の犬を使ってベルの音が犬の唾液の条件反射を起こさせる実験をしているが、実験では脳が環境に影響されて変化した事を示している。 この新しい考えでは、遺伝子は我々に学ばせ、記憶させ、真似をさせ、言葉を刻み込ませ、文化を吸収させ、本能を表現させる。遺伝子は操り人形を操る人形師でなく、青写真でも無い。単なる遺伝の運び屋でも無い。遺伝子は生きている限り活発に動いている。遺伝子同士はお互いにスイッチをオンにしたりオフにしたりし合っている。子宮の中では体と脳の作成を指示しているであろう。環境にも反応して、自らが作成したものを破壊し、作り直す。遺伝子とは我々の行動を作る源である、と同時に行動により作り出されたものである。 この遺伝子の新しい考えが環境か遺伝かの議論に終止符を打つであろうか。あるいは次の世代に又蒸し返されるであろうか。過去の時代と違って、科学は遺伝子と環境の相互作用を詳しく説明し始めている。遺伝子と環境の相互作用は、子宮の中で、クラスルームで、あるいは大衆文化の中で起きていると科学が説明しているから、今までのような間違った2分法による決め付けは次第に止むであろう。 恐らく、我々は結果が原因になるような、循環的因果関係で物を考えるのが不得意なのであろう。だから、簡単で真っ直ぐな原因と結果論を求める傾向がある。クウォンタム理論や相対性理論のような、育ちが生まれを導くような理論は人間には難しい。蛇を見るだけで瞬間的に恐怖する我々の本能の様に、生まれか育ちかの単純2分法で考えたいのは我々の遺伝子に組み込まれた本能であろう。 |