オルガノイド

2019年8月29日


今、脳細胞で出来た小さな球体1000個が約400㎞上空を飛んでいる。この小さな球体は脳オルガノイドと呼ばれているが、宇宙に打ち上げる数週間前にカリフォルニア大学サイディエゴ校で作成された。

生物学者のアリソン・ムートリ等が、人間の皮膚細胞を幹細胞に変化させ、それを脳細胞に変えて初期の脳細胞を作った。針の頭ほどの小さなオルガノイドでも数十万の細胞からなり、各々の細胞は我々の脳と同じように神経伝達物質を生産し、脳波を作り出している。

6月に、NASAはこのオルガノイドをロケットに乗せてスペースステーションに運んだ。ここでは無重力の環境で、オルガノイドがどのように成長するかを実験する。

「オルガノイドは複製の速度が速いから、間もなく大きなオルガノイドに成る」とムートリは言う。最近、注目され始めたオルガノイドとは一体何か、科学者も哲学者もまだ説明できない。分かっているのは、オルガノイドが電波を生産していることだ。オルガノイドの成長する過程が、生まれたばかりの子供の脳の成長に一致するのが面白い。

「オルガノイドが電波を出してそれが変化するなんて、誰も予想していなかった」と南カリフォルニア大学のジョージア・クァドラトは言う。ただ、オルガノイドとは複製した脳細胞の塊であって、脳そのものではないとクァドラトは言う。人間の皮膚から脳オルガノイドが作られて、未だ6年しか経っていないが、今や世界の研究機関で作成され、脳の初期段階の発達を観察する有効な手段を提供しつつある。

カリフォルニア大学サンディエゴの研究室では、オルガノイドを使って遺伝的に起きる脳の病気や、細菌感染による脳障害を研究しようとしている。そうするにはより大きく、より複雑なオルガノイドを作る必要がある。一環として、オルガノイドをクモ形をしたロボットと繋ぎ合わせ、オルガノイドが発生する電波でロボットを動かし、オルガノイドの成長にどう影響するか観察しようとしている。

「オルガノイドに意識がある分けがないと言う研究者もいるが、今はそうも言えなくなって来た」とムートリは言う。
オルガノイドに少しでも意識があったら、倫理的問題が起きるとアレン脳研究所のクリストフ・コッチは言う。「オルガノイドが成長すると、自身の意識を形成するようになる」とコッチは言う。

無残な失敗
人間の脳の発達を研究するほど難しいものはない。研究者は長い間、動物の脳で代用して来たが、人間の脳と動物ではあまりにも違うため、成果は出なかった。

「過去の成果は惨憺たるもので、動物では成功しても人間に殆ど応用できなかった」とムートリは言う。
2006年に、京都大学の山中氏が、4つの蛋白を使って、皮膚細胞から幹細胞を作る方法を発見して以来、可能性が大きく開けてきた。皮膚細胞から脳神経細胞が作成可能になり、直接人間の脳細胞で実験可能になった。

2013年、オーストリアで、小さい脳オルガノイドの作成に成功したの報告があった。それまでムートリの研究は、自閉症の人から取り出した神経細胞を使っていたが、幹細胞から脳細胞オルガノイドを作る道が開けて研究の仕方が大きく変わった。

「オルガノイドの凄い所は、オルガノイド自身が自分を複製することだ。条件さえ整えば、オルガノイドは自分で成長する」とムートリは言う。
ムートリの研究室でオルガノイドの成長を管理するクレバー・タルジロー氏は、「ここで我々は半日を過ごします」と沢山の冷蔵庫、培養器、顕微鏡を指しながら言う。

脳オルガノイドを作るのは科学実験と言うより、ケーキのスフレを作るのに似ている。培養液を常に換えて細胞の発育具合を見守らないといけないからだ。計画通りに行くと、細胞群は脳オルガノイドに変わる。脳オルガノイドは小さな塊状で、中にはトンネルが形成され、前駆細胞がトンネルを覆いケーブルを作る。他の細胞はケーブル沿いに成長し、リングを作る。面白いことに、オルガノイドは脳皮質と同じく表面にしわが出来る。

タルジローが半透明のトレーを引き出して頭上のライトにかざすと、数百の小球が淡く照らし出された。2か月もすると、オルガノイド内の細胞は互いにつながり、ねばねばとしたネットワークを作る。

「オルガノイドは互いにくっついていたいのです」とタルジローは言う。ムートリ等は、脳オルガノイドを使ってジカウイルスに感染した脳の研究を開始した。昨年彼らは、ソホスブビルと言う薬剤が、脳オルガノイドを肝炎ウイルスから守っているのを発見している。

スイスロザンヌ大学のデイビッド・ボードは、脳オルガノイドを使う脳の研究は 将来有望だと言う。ネズミや単一神経細胞を使っての研究には限度があるのだ。
ムートリと共に研究するスタッフに、ブラジル・カンピナス大学のファビオ・パぺス氏がいて、彼はピット・ホプキンス症候群の研究にオルガノイドを使っている。この病気にかかった子供は話せず、発作を繰り返す。パぺスは患者から採取した皮膚細胞からオルガノイドを作成してこの病気の仕組みに今迫っている。
「ネズミの脳を研究しても上手く行かない。子供の脳でも研究出来ず、オルガノイド以外に手段はない」と彼は言う。

臨界点
2016年にムートリの研究室で働くプリシーラ・ネグレスは、オルガノイドが発信する電波を初めて捉えた。ペトリ皿の底にある64個の電極が電波をキャッチしたのだ。オルガノイドは驚くほど騒がしい。週を重ねるごとにうるさくなり、その電波も特徴的パターンを示した。
オルガノイドは同時爆発的電波を発する。脳波によく似ていたので、ネグレス等は脳波の専門家と協議した。その結果、オルガノイドの発する電波が、生まれたばかりの子供の脳波と似通っているのが分かった。赤ちゃんとオルガノイドは、しばらく小康状態の後、同時爆発的に電波を発生する。オルガノイドが成長すると、小康状態は短くなるが、赤ちゃんも同じである。

事実上全く違う両者が同じ現象を示すのが面白いと、カリフォルニア大学サンディエゴの大学院生であるリチャード・ガオは言う。「脳細胞の基本動作には、数十億の神経細胞は要らないと言う事であろう」とガオは言う。

オルガノイドを更に知るために、より大きく、複雑で、長持ちするものを作りたい。それには、免疫細胞が必要である。免疫細胞は単に病気と戦う細胞と考えたいが、実は脳の発達段階では神経細胞ネットワークの刈り取りをしている。ムートリの研究室では、この免疫細胞を使ってオルガノイドの成長する様子を知りたい

実際の脳細胞が正しく成長するには、外界との意思疎通が必要である。2017年にクァドラト等は光に反応させる目的で、網膜の細胞を含む脳オルガノイドを作成した。ムートリ等は、脳オルガノイドに色々の刺激を与えて、複雑な神経ネットワークを形成させたい。その一つに、オルガノイドとクモ形をしたロボットを繋ぐ実験がある。オルガノイドから発生する電波でロボットの足を動かす。ロボットにはセンサーがあり、ロボットが壁に近づくとその信号をオルガノイドに伝える。脳の動作に似ているが、こうしてオルガノイドが脳に似た性質を帯びるかどうか。

「オルガノイドが、もし痛みを感じたらどうするか、もし記憶をするようになったらどうするか」とムートリは期待をこめて言う。

ハーバード大学のジータイン・ルンショフは、オルガノイドの属性を言うには早過ぎると言う。先ずオルガノイドとは一体何かが分かってない。10年前には想像もつかなかった物質だから無理もない。オルガノイドは人間の脳とは全く違うものであるとだけは言えると彼女は言う。

まだ、オルガノイドの研究者は少ないから、この手の議論を心配する必要はないだろう。でもムートリは、オルガノイド作成を自動化して費用を安くして、多くの研究者に参加してもらいたいと考えている。宇宙に打ち上げた理由もそれであった。

オルガノイドを入れた箱の中では、オルガノイドは勝手に成長する。宇宙飛行士は所定の場所に箱を置いて、電源を入れるだけである。最近ムートリは、生育具合を見ようと、宇宙から送られた写真を見たら、画像が気泡に包まれてはっきりしない。しかし、次の写真では気泡が消えていて、ベージュの背景に灰色の小さな球体が5,6個が浮かびあがっていた。

「殆どが同じ大きさで互いに絡み合ってない。上手く行っている」と彼は言う。もし成功して大量にオルガノイドが生産出来れば、今までの職人芸は要らなくなる。
「オルガノイドを使ってどんどん実験したいですね」と彼は続ける。



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