薬バブル

2014年9月21日
人生の苦悶を薬で解決しようとする場合、アルダス・ハックスリーの小説が面白い。1932年の彼の反ユートピアを描いた”ブレイブ・ニューワールド”に住む住人は、ソマと呼ばれる薬を自由に飲んで、心の問題を解決した。

今週は、ビデオ・ドキュメンタリーで、プロザックを特集している。ブレイブ・ニューワールドのソマとは関係がないが、”ホンの少しプロザックを飲めば、鬱はたちまち消える”と言うセリフが意外に似ている。

ドキュメンタリーでは、1988年にイリー・ライリー社がプロザックを最初に市場に投入した頃から今日に至るまで、プロザックが社会に与えた影響から、最近起きたコメディアンのロビン・ウィリアムズの自殺まで、広く取り上げている。

1980年代、1990年代は、投げ込まれた浮き輪のように、人々は奇跡の薬プロザックに飛びついた。プロザックはSSRI(セロトニン再吸収阻害剤)と呼ばれる一連の薬の1つであり、その中でもスターの座にあった。メーカーの宣伝文句は、”鬱状態は、神経伝達物質のセロトニンの不足により引き起こされているから、プロザックでセロトニンのレベルを上げれば、ハイこの通り”と言うものであった。この結果、数百万の人たちがプロザックを求め、彼らの中には、プロザックのおかげで、破綻していた人生がよみがえったと主張する者も現れた。

薬効は別にして、この緑とクリーム色のカプセルに包まれたプロザックは、販売の成功物語と言える。プロザックの化学名はフロオキセチン・ハイドロ・クロライドと言い、素人には難しい名前だ。そこで、インターブランドと言う会社が登場して、イリー・ライリー社に名前のつけ方を伝授した。プロザックのプロは肯定を意味したり、プロフェッショナルを暗示させる。アックはアクションで、働きかける雰囲気があり、真ん中のZは強さを意味したり、この場合ハイテクを匂わせる。

(XやZは、普通の単語にはあまり登場しないが、薬理学では、ほぼ同じ意味に使われていて、難しい印象を与える。最近の薬には、やたらXやZが目立つ。参考までに少し調べると、Luvox, Paxil, Celexa, Effexor, Zantac, Xanax, Zoloft, Lexapro, Zocorと、これだけある。あまりX、Zがあると混乱も生じて、ZantacとXanaxでは、どちらが胸焼け用で、どちらがパニック障害か分からなくなる)

勢いに乗ったプロザックも例に漏れず、振り子の原理で振り戻しがやってきて、最近は、驚異の薬から疑惑の薬に変わった。その理由は、医療の現場から、特に若い人が飲んだ場合、自殺の危険が増すのではないかの指摘があるからだ。今のところその事実は確認されていないが、それでも、イギリスの精神科医であるデイビッド・ヒーリーなんかは、SSRIは鬱病の救世主ではなくて、薬バブルだと切り捨てている。

プロザックが私を救ってくれたと言う人もいれば、おかげで感覚が麻痺したと言う人もいる。プロザックの副作用の中でも、性欲減退は頻繁に聞く。作家や芸術家では、鬱から救われたと言う人もいる一方で、心は霧がかかったようになったと言う人もいる。

2012年にナッシム・ニコラス・タレブが書いた本”Antifragile:病気から得られるもの”の中で、「もしプロザックが19世紀に現れていたら、ボードレールの意気消沈も、エドガー・アラン・ポーの不機嫌も、シルビア・プラスの詩もなかっただろう」の表現がある。

最近は、大体セロトニンが鬱と関係があるかと言う人も現れた。その中に精神科医のゲーリー・グリーンバーグがいるが、彼は鬱の原因はセロトニンの不足なんて言うものでなく、未だ未知の世界の脳宇宙の話であるとしている。「脳細胞は銀河の星の数より多く、薬で鬱を解決する話はあまりに短絡過ぎる」と彼は言う。

我々はアルダス・ハックスリーの小説のように、心の問題を薬で解決する間違いをしたのであろうか。これを、精神科医のピーター・クラメールが呼ぶところの”見せかけの精神薬理学”と言う。心の問題に対するボツリヌス療法的アプローチだ。人間の自然な心を病気とするのは、薬で治せるからだと言うが、それは話が逆ではないか。

病気とは関係がない人も、勇気が出ると聞けば、プロザックを飲んで会議に臨み、セールスで成績を上げたいと思う。プロザック・バブルのおかげで、一部の恥ずかしがり屋が、治療の対象にされたかも知れない。似たような問題にバイアグラがあり、今や、バイアグラは病的勃起不全の男性ばかりでなく、年齢で当然起きている人から、自信をつけたい人にまで販売を伸ばしている。

SSRIが社会にプラスに働いた面としては、心の問題が以前に比べてオープンに語られるようになったことだ。以前だったら、ハリウッドスターや、政治家が、心の問題を打ち明けることは決してなかった。先日自殺したロビン・ウィリアムズは、その一人であったが悲劇的なことになってしまった。

しかし、今でも心の病の話はタブーであるのはあまり変わらない。例えば、TVシリーズの”ソプラノ一家”では主人公のトニー・ソプラノが、妻にプロザック漬けになっているのを告白する。「これは真剣な話で、絶対人に言ってはならない。この事実が知られたら、いよいよ薬から離れられなくなる」と迫っている。これはフィクションではあるが、普通のアメリカ人も同じような不安を抱いていて、鬱を口外しないで、ひたすら内に隠している。



脳科学ニュース・インデックスへ