静かな目

2018年6月29日
2003年のオーストラリア・オープンで、セレナ・ウィリアムズのキム・クリジスターに対するセミファイナルで、 5-2で迎えたファイナルセットをひっくり返し、その後の5ゲームを勝利する逆転優勝を果たした。あたかも狙い澄ましたように、サーブも打ち返しも最善の場所に着地している。こんな偉業はどのスポーツでもなかなか見られないが、ウィリアムズは何と2005年のオーストラリア・オープン、2009年のウィンブルドン、2014年のチャイナ・オープンと4回もしている。どれも尋常でない精神的プレッシャーの下、崩れるどころか見事勝利している。

心理学者、脳神経学者は長い事この奇跡を起こすものは何かを考えていたが、遂に特定したようだ。これは「静かな目」と呼ぶ現象で、最もプレッシャーが高まる瞬間に目を一点に凝視して、心と体を集中させる。これが事実なら応用が広く、スポーツの新人ばかりでなく、外科医の訓練にも役立つ。
「静かな目は、冷静に情報を集め、神経を集中させ落ち着かせる」とエくセター大学のサム・バイン氏は言う。

未知の領域
「静かな目」 は運動学を専攻するジョーン・ビッカーズの個人的経験から始まった。運動科学の学生であった彼女は、出来不出来の振幅が大きい選手に注目した。彼女自身も大学のバスケットボールでゲーム前半に27ポイントを上げたこともあり、バレーボールではサーブを連続に決めて試合を勝ちに導いたこともあった。でも、この奇跡は続かず、翌日には普通に戻ってしまった。
「体は変化していないのに、何故あんな事が出来て、翌日にはダメになったのか。超一流選手は技術ばかりでなく、成績が首尾一貫しているのは何故か」と彼女は考え続けた。

ブリティッシュコロンビア大学で博士号を目指す傍ら、この疑問に答えるべく努力を開始した。
先ずプロゴルファーを幾人か集め、特別な装置を用いてボールをパットする時の目の動きを観察した。するとゴルフのハンディーキャップが上位の人ほど、ボールを打つ直前に長めにボールを見つめるのが分かった。初心者では目の位置に落ち着きがなく、ボールを見つめる時間も短かった。
一般的にはボールから目を放すなと言われているが、この実験からも肯ける。素早い情報の処理が良い結果を出すと考えたいが、実際は重要な瞬間では、人は思考の速度を落としている。

「今までの常識を覆す事実を発見した」とカルガリー大学のビッカーズは目を輝かせて言う。静かな目は今やバスケットボール、バレーボール、フットボール、テニス、アーチェリー、アイスホッケー等でも観察されている。

もちろん視線の向く先はスポーツの種類によって異なり、バスケットボールのフリースローではバスケットの位置であり、フットボールのペナルティーキックでは、ゴールの左上か右側の上下のコーナーになる。アイスホッケーのゴールキーパーなら、相手チームが打ち込む玉に視線を置く。一流選手の違う所は、打ち込む直前の目の静止時間が新人より62%程長いのが特徴だ。

静かな目の開始時間とその長さがブレる時、一流選手でも失敗する事がある。この事から静かな目は、正確なプレーを導く重要な情報処理の一環である事が分かる。 気を付けなければならないのは、目を止める時間だけが一流と新人の違いを説明できない事だ。

テニス選手の静かな目を調べたカミオ・サエンズ・モンカレアノは、 「無意識の内に身に着けた仕草だから、選手は別に意識していないし、名前も当然ない」と言う。

静かな目を習う事が出来たら大変役立つ。
ビッカーズは試しに大学のバスケットボール選手に特別の装置を付けてもらい、フリースローをする時の目の動きを観察した。そして選手には静かな目を訓練してもらった結果は、以後の2シーズンでフリースローの正確さが22%向上し、実験の最後にはNBAの平均値を凌いだ。これは心理学が推奨する多くの方法より優れている。

以後、バレーボール、クレー射撃を含む多くのスポーツでアマ、プロを問わず静かな目の技術は応用されている。その効果に注目して、2017年のヨーロッパ・スポーツ科学誌では特集号を出していた。

外科手術の正確さ
今や応用はスポーツ以外の分野に広がっている。エクセター大学は動きに問題がある子供に応用している。従来は運動部分の問題とされて来たが、実は脳と筋肉の連携に問題があるらしいと分かった。大学では更に軍隊でも応用を試みている。
静かな目の技術は外科医の訓練にも応用されている。一流の外科医の目の動きを機械で捉え、それを外科志望の学生が真似ると、従来のやり方より技術の習得が早く、精度が上がった。
現在の所、視線を追う装置の購入は大変費用がかかり、一般には利用が出来ない。

「技術の進歩は早いから、間もなく手の届く範囲になるのではないか」と サエンズ・モンカレアノ は言う。一方、運動中の選手の脳を調べるほどfMRIの小型化には成功していないから、静かな目を脳科学から説明できない。
「静かな目は、情報を短時間に得る動作であると同時に、選手から重圧を払い除ける役割もしているのではないかと」サエンズ・モンカレアノは推測している。

静かな目の効果を立証するために バインは次の実験をした。
バスケットボール選手にフリースローをしてもらい、わざと緊張させるために、選手には成績は他の選手と比べているし、他の選手にも伝えていると告げる。更に、最後に投げた40本のフリースローは命中率が悪く、改善しないとメンバーから外されると追い打ちをかけた。

こう圧力を加えられると殆どの選手の成績は落ちるが、静かな目を訓練した選手はそうではなかった。
バインは、静かな目の状態とはいわゆるフローと呼ばれる心の状態で、神経が研ぎ澄まされていて、しかも心の流れている状態と見ている。静かな目の状態では,心臓の鼓動も遅くなり、注意散漫が解消されて心技体が一致する。しかし、静かな目に余り重点を置きすぎないようにとバインは注意する。何故なら一流選手を作り上げるのは沢山の要素があるからである。

ウィリアムズも分かっていて、「私が4大会を制覇したのも、頭ですよ。自分が負け越している時に大事なのは、焦らない事、落ち着く事です。次の1点、次の1点とだけ考えて最善を尽くす」と2015年にスポーツイラスト誌に述べている。



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