抑圧すべし

2003年2月23日

 貴方は今セラピーを何年もやっているとしよう。子供時代まで遡って過去を思い出し家の事、母親の鏡台の事等、あるいは貴方をしばしば打った悪いベビーシッターのような古傷を思いだし、修復を試みる。でもさっぱり良くならない。感覚は霞んでしまい気分も優れないし、ちょっと触られただけでもびくっとする。気分は明かに悪くなっている。セラピストのアドバイスに従い数百回にも渡るセッションの結果がこれだ。最初と全く変わらない。苦しみを和らげるよう努力をし、過去のわだかまりを全て掘り起こし泣き、体をよじらせて努力したのも全てトロウマによってバラバラになった心を元に治す目的であった。

 バラバラになった思考を良くする為にするトークセラピーが、実際には役に立たない例は至る所に見られる。H.J.アイゼンク氏が1952年にやった調査では、心理療法も何もしないで時間の経過に任す場合と比較した所、大した違いがなかったと判明した。これには専門家もショックであろう。洞察と治癒の関係も誰も証明出来なかった。何が役に立ったかは想像するしかない。救いに導いたのは何か。愛と努力?あるいは薬。いや抑圧かも知れない。

 抑圧とは精神分析によれば病気になる原因ではなかったか。人の心を分裂させ、胃に穴をあけ、下痢を起こし、心の破滅させるものであったはず。いやそうでは無いらしい。最新の研究によると、心を病んだ人は過去の嫌な経験を抑圧した方が良いと言っている。もし貴方が恐怖でどうにも動きが取れなくなっていたら、多分思い出さない方が良いし忘れるべきだ。避けよ、トロウマを塞いでしまって気分転換せよだ。

 この最新の研究結果は9月11日に起きたドレードセンタービル崩壊から学んでいる。この時に沢山のセラピストが駆けつけて、ショックを受けている人にセラピーを施したわけである。統計によると、この時には被害者1人に3人のセラピストが療法を施した事になっている。思い出したくも無いシーンであるが、髭を生やしビート族風で物腰は柔らかいが確信を持った人物が生存者に話せ、話せ、話せと煽ったわけだ。

 心理学者でトロウマ研究者でもあるリチャード.ギスト氏は「従来のトロウマセラピーを受けた結果はどうであったか。反って悪くなった人がかなりいる。助けにならない所か、セラピーによりトロウマを再度受ける羽目になっている」言う。彼ばかりでなく多くの研究者がトロウマセラピーに大変懐疑的になっている。ギスト氏はミズーリ大学の助教授で、今までに災害場面には何回も駆け付けていて、1981年のカンザスシティーの歩道橋崩壊から1989年のアイオアで起きたユナイテッドエアーラインの飛行機事故まで携わっている。その経験に基づき災害現場でセラピーをすべきかすべきで無いか熟考してきた。「多くのセラピストが現場に駆けつけて、悲劇に巻き込まれた人達に悲劇を言葉で再現するように仕向けた。そして人々は逆に悪くなった。人を崖淵に連れて行き、結局崖から突き落としてしまう光景が可笑しいと思いませんか」とギスト氏は続ける。

 悲劇の直後に悲劇を語らせるのは、反ってトロウマを脳の深部に焼きつける結果になるのでは無いか、との疑いを受けて、専門家の間には従来のセラピーに対して疑問が生じ始めている。即ち、過去長い間に渡って信じられて来たトロウマ治療の核心部分に疑いが生じている。

 イスラエルのテルアビブではカーニ・ギンズバーグ、ザハバ・ソロモンそしてアビ・ブライヒの3人が心臓発作を経験した人を対象に調査をした。調査では、発作の経験を抑圧して打ち消した人が、果たして長期的に良好な結果が出ているかどうかを調べた。「抑圧」と言う言葉はその字義以上に我々に迫るものがある。即ち、魔法の山、あるいは霧に包まれたウィーンの市街でのヒステリー性記憶喪失症のようなイメージを我々に与える。しかし実験心理学では、抑圧とはもっと普通の意味を持っている。例えば、ある事を故意に小さく評価したり、否定したり、あるいは気分を別の方向に向けるそう言う意味であり、精神分析で言われる大袈裟な意味合いとはかなり異なる。

 この抑圧のテクニックを使う人の方が、トロウマ回復が早いであろうか。問題の回答を見つける為にギンズバーグ等はイスラエルの3つの病院に入院した事がある人について調べた。心臓発作を受けてその後PTSDを発症した人と、何も起きないでそのまま家に帰った人の違いを調べた。

 研究チームは特に抑圧したグループが長期間に渡って効果があったかどうかに注目した。今までの研究では、抑圧したグループでは短期的に良い結果が出ていたが、長期的に効果が持続するかははっきりしなかった。研究では発作が起きた1週間以内と7ヶ月後を詳しく調べている。チームは最初に患者がどうトロウマに対処するか、客観的に評価する事から始めた。回避、拒否の傾向を数値化して、その数値基準に従って患者を評価し、抑圧で不安に対処する人を抑圧者と定義した。

 結果は、強い不安を示すが抑圧の弱いグループは、そうで無いグループよりPTSDになる確立が高かった。簡単に言うと、恐怖経験に蓋をしない人、要するにくよくよ考えて不安を和らげようと努力をしているグループは良くない結果が出たのである。心筋梗塞が起きた後、7ヶ月の時点で、蓋をして語らないグループが7%のPTSD発症率なのに対して、良くしゃべるグループでは19%に達した。

 明かに抑圧はPTSD阻止に有効であると出ている。抑圧して無視するグループは多分順応する能力が有り、良い成績を出したのであろう。抑圧する人とは何か事が起きた時にそれを言い逃れる術、即ち火災発生を見てもキャンプファイア程度に、あるいはザーザー降りの雨でも霧雨程度に言いくるめ、パニックが起きないような安全弁が働いていると推定して良さそうだ。

 要するに抑圧する人は心を上手く操縦する。例えば、重傷を負っても、心筋梗塞を起こしても、注意を意識的に他方向に向け心の平和を保てる。それが上手く行かない場合は、これ以上大した事にならないと楽観的に考える能力がある。彼等は口を閉ざせばパニックを最小限に抑える事が出来ると本能的に信じているようである。実際にそうなるかどうかでなく、出きると信じている。丁度「小さなエンジンで山越え」の本を読んだ人のように、出来ると思うから山越えさえも出来てしまうのだろう。

 コロンビア大学教育学部心理学の助教授であるジョージ・ボナノもやはり同じ結論に達している。彼の研究ではイスラエルでやった手法とは異なり、抑圧の手法を機器で測定した。例えば、伴侶に先立たれた男女にその喪失感を語らせ、同時に心拍数、皮膚の電気反応を測定した。実験グループの中に、心拍数が高まっているにも関わらず普通を装っている人達がいた。この人達が抑圧グループであり、時間と共に悲嘆は和らぎ、良い順応傾向が見られた。この傾向は他の多くの調査でも証明されている。

 ボナノ氏は最近若い女性を対象に性的虐待とその後を調査している。「インタビューで性的虐待を口にしなかったグループでは鬱や不安のような内的症状が少なかったし、外的症状すなわち敵意、粗暴な態度も少なかった。この人達は抑圧グループであり、上手く問題を処理している。私はこの研究を10年間やっていて、その成果は新聞雑誌のトップに取り上げられている。残念な事に専門家の多くは私の研究を無視続けている。1980年代に入り、トロウマは広く認められた医学用語になり、これを研究して学者になった人も多くいた。しかし次ぎに起きたのはうんざりするほどのトロウマを語れ、トロウマを見つめよの論文の連続であった。彼等は別の可能性を考える余裕が無いようである。人の知能なんてどの見解を取るかで決まってしまいますね」とボナノ氏は語る。

 ジョージ・ボナノはニューヨーク市に、リチャード・ギストはカンザス市にいる。両者は直接合った事は無いが一度合って話すべきだ。彼等の主張は多くの面で似ている。ギスト氏は「トロウマに蓋をして上手く処置する人はセラピストの所に来ない。だからトロウマセラピーの従事者はこの種の人達の事は良く分ってない。しかし彼等から多くを学ぶべきだ。私が知っている限りトロウマを抑圧する人達は健全な人達であり、人生の悲劇を上手く処理している。どうして彼等はもっとこの人達の回復能力に心を動かされないのだろうか。どうしてひ弱い部分にのみ注目するのであろうか。実は、トロウマ産業はこのひ弱な人達のお蔭でお金を儲けさせて頂いていると分かっている。私は傲慢と欲で巨万の富を稼いでいる心理学者を知っている」と言う。

 ギストによればトロウマを受けた人から聞き出して分析する手法、即ち話させてカタルシスを起こすやり方は治療効果が確認出来ないと言う。ギスト、ボナノの両氏共に、被害者にトロウマを語らせる手法は、金銭上のあるいは政治的、歴史的理由により存在するのであり、治療とは関係が無いと言う。

 それでは歴史的理由とは何か。トロウマ治療の背景は広範であり、その理由は各種に上る。先ずフロイトが挙げられるが、かれは最初女性のヒステリーは子供時代の性的虐待が原因であると考えた。その後、古くから有る感覚に妥協する形でこの考えを取り下げた。フロイトの前にはジーン・マーチン・チャーコットがいて、彼は女性のヒステリー発作は過去に受けたトロウマの抑圧された記憶が体を通して現れたのではと考えた。

 現代では1980年代の始めにトロウマ産業が活発化した。この頃、女性運動家がPTSDは何もベトナム帰還兵ばかりで無く、多くの女性にも起きていると主張し始めた。セラピストに通っている中流で教育の有る女性が自分達の真実を語り始めた。実は、近親相姦は心理学の教科書に書かれているような、100万軒の家庭に1件の割りに発生しているので無く、もっと頻繁に起きているのが分かった。

 そして現在は哲学博士やら、教育博士、心理学博士、社会福祉サービスの人等色々な人がやたら出てきて、近親相姦は夜の都市郊外住宅地の至る所で発生していると言い始めた。

 このように、近親相姦の説明は最初から破壊撹乱的であり、彼女達の語り口は、個人のリハビリであると同時に政治的色彩を帯びていた。だから、沈黙は少なくても性的虐待には、害があっても良い事は無いと考えられた。話してこそ救われるのである。この傾向は性的虐待ばかりでなく、あらゆる種類のトロウマにまで拡大された。虐待を受けた人達を助けるために考案されたトロウマセラピーは、故に話す事に主眼が置かれているのが理解できるであろう。

 トロウマとはギリシャ語で傷を意味するが、我々が自分自身を説明出来ない状態と考えられている。治療の最終目的は、より多く自分について語る事であるから、その過程において、関係無いものまでひっくるめる可能性はあった。

 1990年代に入ると自分について語れない原因を、脳神経学的に説明する試みがされた。ベッセル・バン・デル・コークは、抑圧されたトロウマは脳神経と多いに関係があると言い出した。例えば強姦、飛行機事故等の記憶は脳の非言語分野に瞬間的に記憶され固定される。固定された記憶は水面下で恐怖とパニックのシグナルを出しつづける。トロウマ治療のゴールは、記憶を非言語野から言語野に移動して統合されたストーリーに完結する事であると言う。この仮説は何と出来過ぎているではないか。順応性が有り、信じ難い程構想力の有る脳を賞賛しているが、これが本当かどうかどうやって証明するのか。

 人生を語ろうとするのは人間の本質的部分であるが、トロウマ産業は誰もが必ずしも回顧録執筆者ではないと言う事を忘れていないか。ストーリーを周囲に語る者もいるが、言葉からは決意を聞き出せないかも知れない。又寓話を作るのが上手い人もいる。そんな人は亀とウサギの話しのように、善悪を簡単にまとめあげる。もし、トロウマ産業が主張するように我々が皆過去の経験の語り部なら、我々は同時にその語りの文脈に束縛される事になる。多言を好む者もいれば、言葉に現せない部分に重きを置く者もいる。あるいは全く表現を拒否して、恐ろしい部分を無視し通過する人もいる。

 さあ、そこでこの無視派にはどんなマイナスがあるであろうか。マサチュウセッツ州のレキシントンで開業してる心理セラピストのジェニファー・クーン・ウォールマン氏は無視派に疑問を呈す。「人生の重要な部分を無視したり抑圧したりした場合、人は人生を豊かにする何かを、あるいは多くを経験させる何かを失っていないだろうか」。私もそう思う。しかし、私だって過去にトロウマがある。貴方だってそうだろう。トロウマに蓋をして、多少棘の有る人生を少し切り落としてそのまま行けるなら、それで結構。それで行こうではないか。・・・・トロウマを蓋する鍵とキーをよこしてくれ!

 マサチュウセッツ州ブルックリンに有るアーバー病院のギルバニー・リーラー氏は私の鍵とキー理論を必ずしも支持しない。「トロウマを正面から見つめ語るのは治療に欠かせない。経験とそれに伴う感情の仕組みを学び、新しい生きかたを発見する」と氏は言う。
しかしギストは反論する。「イスラエルのギンズバーグの仕事は素晴らしい。全てを説明するわけでは無いとしても、我々に重要な暗示をしている」。
それに又反論する形でウェルスリー大学の教授であるエミー・バンクス氏は「ギンスバーグの発表は面白いが説得性に欠ける。抑圧する人には抑圧は効果があると言うが、そうでない人にはどうなのか。多分良くないだろう」と。

 このバンクス氏の感想こそが医師、患者、専門家、素人を含めて多くに支持されている。「勇気こそが癒す」エレン・バスとロウラ・デイビス共著のトロウマトークセラピー書は70万部売った。「トロウマとその回復」を書いたジュディス・ハーマン氏(ケンブリッジ大学の暴力被害者トレーニングセンターの責任者)はその本の中で、トロウマを語ってカタルシスを起こす重要さを支持している。

 ここでインターネット上のトロウマ関連のウェッブサイトを覗くと、我々みたいな素人が口角泡を飛ばして論争を繰り広げているのを発見する。

 上に挙げた反論以外に、ギンスバーグの研究には、臨床に携わっている人から方法論において異論が出ている。その1つが、性的虐待被害者と心臓発作患者の関連性である。

 バンクスは「性的虐待とはもう1人の人間から受ける暴虐であるのに対して、病気、事故、自然災害から受けるトロウマは精神的衝撃の大きさが違う。性虐待では信頼の崩壊と人間関係の喪失が存在する。更に性的虐待は繰り返し秘密裏に行われる。受ける子供は未だ言葉で表現出来ない段階であるのに対して、心臓発作の患者は誰にでも見える場所で起きており、患者は言葉で表現できる。しかも事実をしっかり認識している」。

 この意見には賛否両論がある。確かに性的虐待には人に言えない恥辱がある。しかしギンスバーグもその研究の最初の部分で言っているように、心臓発作とは死をも意味する衝撃である。致死率は高い。再発の確立も高い。それでも大した事が無いと言うならシンボルとしての心臓を考えてみたまえ。体の中央に有る筋肉の魂だ。これが微細動を起こして激しく痛む。そんな事が一度起きるとこの病んだポンプを信用できなくなる。性的虐待も生死を分ける発作も、自己の信頼性の喪失と言う意味では同じだ。この共通性こそが互いに異なるトロウマ結びつける。

 それでも臨床家はギンズバーグの発表に疑いを持つ。「我々は彼の研究が正しいと言いたくないのだ」とボノノ氏は言う。そうでしょう。抑圧理論は伝統的セラピーに挑戦すると言うより、侮辱するように思える。この侮辱感こそが研究結果そのものより興味をそそる。そうです。彼等は侮辱されたのだ。何故か。

 アレックス・デ・トックビル(19世紀のフランスの思想家)は知っていたと思う。かれが最初にアメリカに来た時、それに気がついた。ナルシシズム(自己陶酔)、正教徒主義、そしてロマンティシズムを我々社会の核心に見出している。これらは余りにも我々の基本的アイデンティティだから気がつく人が少ない。我々は自分の魂をベストに保つには自分を表現するのが最上と信じている。

 アメリカの個人主義とは、内なる自分をはっきり述べる権利の中に存する、とトックビルが彼の本「アメリカの民主主義」で主張している。それゆえ抑圧は反アメリカ的であり、古臭く、反芸術的で、お粗末なゲルマン的であると見なされる。自己と言うものはペンにより、筆により、言葉により最良に明示されべきとトックビルは考えた。エマーソン、ソロー、そして超越主義を信奉したウィットマン達も同じように考え、アメリカ個人主義を賞賛した。

 しかし抑圧に抵抗する姿勢は19世紀以前に見られる。表現する事こそが癒しになり、従って抑圧は害になると主張したのは2世紀の医者であり著述家であるガレンである。彼はヒポクラテスの理論を拡大して、体は4種類の体液のバランスの上にあると主張した。黒胆汁、黄胆汁、粘液そして血液4つである。病気、その中でも心の病気はこれら体液のバランスが崩れた結果起きると説明した。癒しとは医者が体と魂から余分な体液を抜き取った時に起きると考えた。その目的を達する為に下剤、嘔吐、蛭が用いられている。

 健康とはカタルシスであり、カタルシスは表現である。現代のトロウマ療法がガレンの流れを汲んでいるのが直ぐ分かる。この考えは西洋の文化に深く根ざしていて、これを取り除くとは医学、宗教の立脚する基本哲学を崩す事になる。だから抑圧がトロウマ治療に意味があると言うと、我々の文化に真っ向からぶつかる。我々は今ポーストモダニズムの時代にいるが、そこでは究極の正しい歴史は存在しないし、完璧な真実も無いと主張される。しかしそれは同時にトロウマ療法をも直撃する。

 ギンズバーグの研究に対する数々の反応が示しているように、我々は今でもウォールト・ウィットマンの流れを汲んでいる。更にこれら反論には実際上の理由もある。莫大な利益を稼いでいるトロウマ産業が、根本の所から変化せざるを得なくなるからである。アメリカには数千のトロウマ治療センターがあり、ウィットマン流の治療をしている。自助努力トロウマ産業も毎日患者に話せ話せとやっている。もし抑圧が評判になると、全国規模の大不況が起こらないとしても、教育、政治、医療面での相当規模の混乱が予想される。もちろん国家援助の治療プログラムは縮小されるに違いない。これを避けるには、抑圧と言う考えを抑圧するのが一番良い。

 抑圧が流行したらセラピーはどんな変化を遂げるであろうか。ここにダスティー・ミラーと言う女性がいる。彼女はマサチューセッツのノーザンプトンに住んでいて仕事もしている。青い目の50代半ばの人である。彼女の事務所は小さくて質素である。壁にはオウドリー・ロードの写真とその言葉が飾ってある。”力強さを望む時は先を見よ。心配は次第に消え去る”。ミラーはこれが真実であると知っている。ミラーが心理学者になる前は患者であった。その前は父親に性的虐待を受けた犠牲者であり、毎夜毎夜、父親の訪問を受けてそれが何年も続いた。

 コーネル大学の学部学生であった頃セラピーに通った。1960年代の当時、彼女の記憶は希望に過ぎないとセラピストに言われ、1980年代になると記憶は全て真実であり事実であるから、ナンシー・ドゥルーのように過去の暗い忌まわしい記憶にライトを照らしなさいといわれた。

 彼女はトロウマの記憶を繰り返し思い出し語り、次第に症状は悪化した。「セラピーを受けた後は体中がぶるぶる震えた。部屋を出るとクレジットカードを取り出して、必要でもない着物に5万円も払って無駄な買い物をする事もあった」と彼女は言う。 1年程セラピーをやった後、慢性的関節炎を併発し微熱に悩まされた。殆ど動けなくなり極度の疲労感に襲われた。雪が降り天候が回復し、彼女は何か変化をしないと駄目ではと考え始めた。「病気が良くなる直前には悪化する事があるなんて良く言うではないですか。私はそれを信じていたの。もうそんなの信じない。それを信じたお蔭で身も心もバラバラになった。幸せだった子供時代に戻るのは今だって遅くないと言う意味が良く分かります。実際そうなんですよ」とミラー氏は言う。

 それで彼女はナンシー・ドゥルーセラピーをやめる決意をした。「私はもうここに来ません」とセラピストに言った。それで何を開始したか。テニスです。そうテニスです。ボールに神経を集中させる。白線の中で走りボールを激しく打つ。「テニスこそ私を落ちつかせた。優美に私の不安を解消してくれた。トロウマトークでなく、テニスが私を変えたのです」。その後臨床家になったミラーは、自分の経験から患者のトロウマ分析を停止させ、生活に力を与える何かに目を向けるように指導した。今までは患者に今日は如何ですかと聞くと、酷い、苦しい、恐ろしいの言葉ばかりが返って来ましたが、今は患者にどうしたら注意を集中出来るかと聞きます。患者には紙人形と色紙が渡される。トロウマを受けた患者は人形の傷んでいる部分に色紙を貼るように言われる。それだけでなく、人形をもっと活気有るものに作り変えるように指導される。

 ミラーのセラピーは回想するので無く、動く事に重点を置いている。動きは瞬間的に記憶を薄め遮断する。彼女は賛同者と共に西部マサチュウセッツ州に低所得者女性と子供を対象としたトロウマセンターを開業した。そこには台所があり、入所者は炊事を進んでやる。コンピュータールームでは求職以来のEメイルや履歴書をタイプ出来る。屋根裏には部屋一杯の気の効いたドレスが格納されている。就職の面接があると直ぐ良い服装で出かけられるのだから、彼女達をうきうきさせ無いわけが無い。

 ミラーは更に言う。「私の患者にカレンと言う人がいた。彼女は性的虐待の被害者であり、分裂病患者でもあった。彼女は従来のセラピーを徹底的に受け、幼児化して最悪の状態になっていた。幼児のように縫いぐるみの人形を抱えながら歩き回り、泣き続けていると治るとセラピーは主張する。私は彼女には過去を一切質問しなかった。直ぐ彼女にコンピューターに向わせ習わせた。少しコンピューターが分かった所で彼女に調査の仕事を手伝ってもらった。そしたらどうでしょう。Eメイルが送れるようになり、我々にも多いに役に立つようになった。考えても見てください。分裂病と虐待の二重障害を持っている人がコンピューターを使ってサイバースペースを自由に闊歩する姿を。人生が良くならないはずが無い。

 そして政府の役人が例の如く1年か2年に一辺回ってくる。私は「私は心理学者のダスティー・ミラーです」と自己紹介する。カレンの番になると彼女は「私は分裂病と性虐待の被害者です」では無くて「私はカレンです。フランクリン郡の女性と暴力プロジェクトで民族誌を担当しているカレンです」と答えたのです。私は大変感激して目に涙が出ました。そして現在のカレンはパートタイムの仕事をして、少しお金を貯めておんぼろの車を買った。地域のコーラスグループに入り合唱を楽しんでいる。彼女は平和の歌が好きらしい。彼女は未来を見つめもう過去を語らない。これを聞いて幸せを感じない人はいないであろう。しかし心配だって全く無いわけではない。

 未来のトロウマ治療とは甘ったるい感傷的なものであろうか。あるいは恐ろしく快活なものだろうか。それとも小さな部屋で蓋のような天井と金属のような壁に囲まれて涙も流せない雰囲気でやるものか。

 言葉に出して表現すべきか抑圧すべきかの論議は大昔からある。紀元前5世紀にソクラテスがはっきり自分を表さない人生は生きる価値に値しないと述べた。トロウマチームはポイント1点を稼ぐ。やはり同じ時期にギリシャの悲劇詩人のソポクレスはオイディプスが真実を知ったが為に、余りの衝撃に自分の目をくり貫いた話しをしている。オイディプスは知るべきではなかったのである。ギンスバーグ側に一点追加。

 どちら側が正しいか誰も言えない。考えまくるより気分転換の方が良い時だって沢山ある。果てしも無く過去を探索している諸君には仕事でもしろ、と言いたい。反対に口を硬く閉ざして、ゲンコ面している連中には過去を表現するセラピーも多少の効果が有るだろうと言うべきか。フロイトは抑圧とは苦痛を伴う対象から注意をそらし、別の何かに注意を向ける事と上手に表現している。近頃のストレス社会では抑圧が必要な時がしばしばある。抑圧は記憶のフィルターになり感情を安定させてくれる。注意を外に向けろ。…しかし逃げるべきか。

 ここにリトマス試験紙がある。もし貴方が息切れして足ががくがくしていたら、スピードを落として見よう。そこに留まろう。あるいは人生が暗闇からの逃走であったら、止まって後戻りしたらどうだろうか。頭を塞いでいる蓋を作り変えて見よう。あるいは蓋を頭の上に載せて支えて見ようではないか。



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