脳の再起動 2005年3月21日 |
コネチカット州に住む2児の母親であるマーサは、過去20年間、鬱病で過ごしている。精神科医、心理学者、薬と八方手を尽したが、どれも効果が無かった。去年の6月、ニューヨーク州のコロンビア大学精神医学研究所で、実験的試みをやっていると聞きつけた。この試験は、強力な磁界を脳の一定の場所に当てて、問題を起こしている脳神経回路の修正を試みるものだ。現在、アメリカには、マーサが苦しんでいるのと同じタイプの難治性鬱病患者が数百万人いると言われる。
全てをやり尽くした彼女は、迷う事無しに実験的試みを受ける事にした。装置はずんぐりした、ねずみ色の三日月型で、その下に彼女が座る。装置からパルス状の磁気が脳のてっぺんにめがけて照射される。磁界の照射時間は1回1時間で、1週間に5回受け、それを6週間やる。「変化の兆しは3週間後に感じました。9月には気持ちは最高になり、食事をするとか、太陽光を見たりするだけで幸せと感じました」とマーサは語る。その後も継続的に研究所を訪れて、磁界照射を受けた。この結果、ほぼ6ヶ月間症状を抑える事に成功した。この治療法は、継続的経頭蓋磁気刺激法『repetitive Transcranial Magnetic Stimulation(rTMS)』と呼ばれている。マーサがこれほど回復したのは、なにもまぐれ当たりでも何でもない、と研究者は言う。何故なら、世界の研究室で同様の実験をして、同じような効果が報告されているからである。 〇〇研究所がこのテストに注目し、コロンビア大学を含む4つの研究グループに追試を依頼した。今度は、240人の鬱病の患者に継続的経頭蓋磁気刺激法を実施し、試験を受けないグループとの比較をする。「今から2〜3年の内にrTMSが本当に安全であるか、そしてどれほど効果があるか結論が出るでしょう」とコロンビア大学のサラ・リサンバイ医師は言う。同じ試験をさらに神経症、分裂病、卒中、癲癇等にも実施しようとの声もあがっている。 まだこの実験は始まったばかりで結論を言うのは早いが、少なくてもrTMSが心の病気の原因への回答を出すのではと期待されている。脳はネットワークを構成して機能しているが、そのネットワークに乱れが生じた時にどのような問題が生じるかへの回答である。マーサの難治性の鬱病は、このrTMSで軽減したが、何故効果があったか、どのように作用したか、研究者の誰も説明出来ない。 ここで幾つかの点を整理しよう。rTMSで使われる磁気刺激装置は、関節炎の患者が使っているような、腕の周りに貼り付ける棒状の磁石とは違う。むしろ、MRIスキャンに使われる精密な電磁石に似ていて、手の平に入るほどの大きさである。脳に影響を与えるのは磁界では無く、磁界が作り出すパルス状の弱い電流で、反響のようなものだ。この電流が脳の神経細胞の中を流れる。 何となく電気ショック療法を思い出させるがそれとは違う。「磁気刺激装置は、直接電気を接続しないで、弱い電流を発生させる上手いやり方です」とウェイクフォレスト大学の神経学のジョージ・ウィッテンバーグ氏は言う。氏は卒中患者を対象に、損傷を受けた神経細胞の回復に、この方法を取りれて研究している。電気ショック療法は脳全体に影響を与えるのに対して、磁気刺激では脳の一部に対して、しかもその表面、即ち皮質だけに影響を与える事が出来る。電気ショック療法はひきつけを起こすが、磁気刺激にはそれが無いから、筋肉弛緩剤とか麻酔剤が必要ないし、記憶喪失のような副作用も無い。治療を受けている患者は、弱い電流が流れる時に、軽い頭をたたくような刺激があるだけである。 では何故脳内に電流を発生させる必要があるのであろうか。「脳は電気信号と化学物質信号を処理するコンピューターです」とサウスカロライナ医科大学の精神科医であるマーク・ジョージ氏は言う。氏はrTMSを鬱病に応用して研究している。プロザックとかゾロフトは化学物質のバランスの狂いを調整する。しかし化学物質のバランスの狂いが全てを説明するわけでは無く、電気も関与している。それが証拠に、電気ショック療法はその記憶喪失と言う副作用があるにも関わらず、あらゆる治療に反応しない、重度の鬱病に対して最も効果がある。 研究者は、磁気刺激が脳にどう作用するのか分からないと率直に認めるが、少しだけ分かる事がある。それは脳内の神経細胞は、お互いに離れているにも関わらず影響しあう事である。例えば、判断と計画の中枢である皮質と、脳の深い部分に存在する大脳辺縁系と呼ばれる感情の中枢は、太い神経で結ばれていて、ここに注目が集まっている。この2つの脳の活動のバランスの狂いが、鬱病の原因では無いかとする仮説もある。だから、皮質部分に電気刺激を与えれば、丁度コンピューターの再起動のように、ネットワークのリセットを起こすのではと期待するわけである。 このリセットがどの位持つか、あるいは脳の他の部分に磁気を照射したら更に良い結果が得られるか、その辺は誰も分からない。それでもrTMSを使って病気の治療をしようとの研究は加速している。例えば、特殊なMRIを使えば、卒中患者の脳のどの部分に障害が起きたか、その障害を受けた部分に代わって機能しようとする他の部分は何処なのか、を特定する事ができる。 デトロイトにあるウェイン州立大学のランダル・ベンソン氏は、28人の卒中患者に対してrTMSを実施して、その効果を調べている。卒中を起こして言語中枢に障害が生じた患者で、あらゆる治療に反応しないケースがある。その場合、脳スキャンでまだ障害が軽微な言語中枢を探し、見つけたらその部分に対して、磁気を照射する。「言語のような物は脳内でネットワークを組んで作成される。だから、ある部分を刺激するとその刺激が脳の全体に影響します」とベンソン氏は言う。 ハーバード医科大学のアルバロ・パスカルリオン氏は、やはり卒中患者の言語障害を除去しようと試みているが、別のやり方をしている。彼は、障害を受けた脳の代わりをする別の脳を刺激をするのでなく、回復を遅らせる神経回路を破壊しようとする。「脳は脳が障害を受けると、影響を受けた部分の活動を停止しようとする」と氏は説明する。こうして、ダメージがより少ない部分の神経細胞の回復を促す。しかし、この抑制ネットワークが止まらない場合もある。そこで、磁気刺激でこの神経細胞を弱くして回復を促す、とアルバロ・パスカルリオン氏は言う。 彼等自身、当てずっぽうの実験と率直に認めているが、彼等こそ、脳と言う目も眩むほどの複雑な生物学的コンピューターを、治そうとする最初の人達である。治療困難な鬱病から回復したマーサの謝意を聞くにつけ、危険を承知でもやるこの先端医療には価値がありそうである。 脳科学ニュース・インデックスへ |