不安の科学

2002年6月2日
 
今は朝四時、貴方は既に目を覚ましている。手の平は汗をかき心臓は高鳴っている。子供、親を心配し、老後の貯蓄が危ない。自分の健康、セックスライフも自信が無い。自分に比べて女房は余り頓着していないようである。一体女房は不安や危険を感じないのであろうか。感じてないのに違わない。そうでなければ昨日の晩に海外旅行の話しをあんなに楽しそうに話すわけが無い。

どうして同じ条件で生活していても、人により感じ方が違うのであろうか。何故人生の浮き沈みで激しく揺さぶられる人もいれば、余り頓着しないで過ごす人がいるのであろうか。恐らく人により生まれた時から不安を起こしやすい体質があるのかも知れない。ではもし自分がそのような体質に生まれたなら、何か上手い手立てはあるのだろうか。

この話しの要点は不安と呼ばれる感情反応である。空腹感や喉の乾きは今にも起きるし、満たされると直ぐ消えるが、不安はそうでは無い。当面の不安が去った後に背後から迫ってくる種類である。この不安が我々の自己満足と過剰安心感をいさめる働きをして我々の生存を保証してきた意味もある。

動物の中でも小さくてちょこちょこ歩き回る種類のものは不安を感じているように見える。人類も牙をむくトラと地球上に生存していた頃以来不安を感じている。しかし今は更に不安を感じる時代であろう。9月11日のワールドトレードセンターテロの一時的ショックは消えて、恐怖は大分収まっているはずなのに、多くのアメリカ人は国民的不安を引きずっているように見える。

最近実施された調査によるとテロ8ヶ月後の時点で、アメリカ人の3分の2が1週間に数度あのテロ攻撃を思い浮かべると結果が出ている。我々は昔の恐ろしい光景を瞬時に思い出してしまう。例えば最近のテロ再発の可能性を示す警告が新聞、テレビに出ると、一度我々が忘れていたあの恐怖をあっという間に思い起こすのをみても分かる通りである。

ここに不安を解く鍵がある。身に危険が迫った時、不安はごく自然な反応であり、心を集中させる役割をするが、一方危険が去っているにもかかわらず引き続き存在する時は、生活に障害をもたらす。勿論第一時世界大戦に従軍した兵士の戦争神経症とか、ワールドトレードセンター崩壊に直面した市民がその種の不安を持っているのは分かるが、一般の我々が得体の知れない不安に苛まれて生活に支障が起きるのは理解が出来無い。

確かに我々の身の回りには不安を感じる人が沢山いる。例えば神経症がそれであるが、この人達は生活を脅かすほどの不安に悩み、今やアメリカでは最も一般的精神障害である。単一の恐怖症から全般不安症まで全部入れると1900万人のアメリカ人がこれに悩んでいる。

カリフォルニア大学が1月に実施した調査によると、神経症者の内、25%以下の人しか何等かの医療措置を受けていない。「もし精神医療が保健医療の継子なら、神経症は継子のまた継子になる」とアメリカ神経症協会の会長であるジェリリン・ロス氏は言う。

ジークムント・フロイトは神経症に大変注目していて、早くから神経症には2種類のタイプがあると判断した。1つは生物学的に起きている神経症、2つ目は心理的影響によるものである。しかし残念な事にフロイトを信奉する人達が性の衝動とか心理的抑圧のみに注目した為に、生物学的側面の研究が次第に消滅した。しかし最近は神経症の基本的研究が目覚しく進歩した。特に最近の10年間では神経症とは全て脳に深くかかわる反応に根ざしている、と認識されるようになった。それらを列記すると
  • 遺伝子の役割を無視できない;ある人は始めから神経症になるべく生まれている。


  • 危険を察知した時に神経症者の脳は健康な人の脳とは違った動きをするのが脳スキャン結果から分かっている。


  • 脳の情報処理システムには短絡回路があり、情報がこの回路を経由する時は我々は事物を深く認識する以前に体をひるがえして危険を避ける。


  • 神経症の原因は神経症を起こす外部要因で無く、不安をコントロールするメカニズの故障であり、神経症とはその結果不安が制御できない状態を意味する。

最近の科学の動きを見る前に言葉を整理しよう。
ストレスとか恐怖という言葉に対して我々は直感的意味合いを持っている。だが研究者は、それらに更に具体的専門的意味を持たせている。即ちストレスとは、外部刺激であり多くは危険を知らせるもので、痛みを伴うものである。恐怖とは、ストレスが引き起こす短期的反応であり、人間でもネズミでも同様に起きる。不安とは殆ど恐怖と同じ反応であるが、ストレスや危険が去った後も長く残る不快な感覚である。

科学の分野では、感情とは何であるかを特定するのが難しかった。何故なら、感情はその性質から言っても曖昧であり主観的でもあるからです。例えば、ネズミに今不安であるか鬱状態であるか聞くことも出来ない。殆どの人にとって自分の感情を上手く説明できない。それは丁度、肺の動きを説明できないのと同じである。しかし恐怖は観察するのが簡単である。恐怖が起きるとネズミは隅で動かなくなるし、人間では冷や汗が出て心臓が高鳴り血圧が上がる。これらの反応は外部から測定できるし、制御も可能である。「恐怖を起こさせる何かをネズミや人間に見せてその反応を研究できる。それから刺激物を取り去って、どのように感情が落ちついていくかを調べる事も出来る」とアメリカ精神医療研究所(NIMH)のウェイン・ドレベット氏は言う。

実際、不安に関する多くの知見はネズミに恐怖を与えてその後解剖して得られた。丁度、100年前のロシアの研究者であるイワン・パブロフが、ベルの音を鳴らして犬が唾液を垂らす条件反射を作り出すのに成功したように、現在の科学者はネズミに音やライトの刺激と同時に電気ショックを加えてその音、ライトに恐怖反応起こさせている。その後は、ネズミは電気ショックを取り去っても音やライトの刺激だけで恐怖する。この後にネズミの脳の一部を取り出して、恐怖反応の効果がどのような形で起きているかを分子生物学的に調べる(これは人間に対してはやれない実験である)。大変根気が要る作業であるが、ネズミの行動の変化と脳の変化を照合して、不安が一体脳の中をどのように伝達されて行くかが少しずつ解明されて来ている。

不安の伝達は、先ずネズミがストレス(電気ショック)を感じる場所から始まる。ネズミの感覚器は速やかにメッセージを脳の中央部分に送る。そこでは2つの神経通路を経由して情報処理される。その1つの経路は、長く曲がりくねっている経路であり、脳が正確に情報を処理する経路である。もう一方の経路は緊急の短絡経路で、アーモンドの形をした扁桃体に直接メッセージが送られる。

扁桃体の特徴は、体のどの組織へも緊急信号を送り、極悪人のように激しく襲いかかるか、脱兎の如く逃げ出す反応を作り出す。この反応は正確さを追及したものでなく、ただ早いだけである。例えばピクニックに行ったとしよう。野道で蛇を発見して、はっとしたがそれは単に棒であった場合は扁桃体の為せる業である。ニューヨーク大学の神経学者であるジョセフ・レドークス氏は扁桃体を恐怖の中心と言う。

扁桃体は緊急信号を身体の各部に送ると同時に、扁桃体の横にある曲がった形の小さな組織である海馬(十六世紀の解剖学者がタツノオトシゴを意味するギリシャ語から命名)にも信号を送る。海馬の役割は、脳が学習したり新しい記憶を作成する時それを助ける役割をする。ネズミの場合では電気ショックを受けた時の場所と状況を記憶させる役割をする。状況の学習は、ネズミのような動物でも再度ショックを受けないように、その場所を避けるのに有効である。同時にどの場所なら安全かを知るにも役立つであろう。

この時点ではもう一方の経路を経たメッセージは脳皮質に到達していて、皮質は危険が今存在していて痛みを感じていると認識する。ショックが消えると、前頭葉と呼ばれる脳の前部にある脳皮質がオールクリアーメッセージを発する。即ち警報解除の信号であり、扁桃体に向けて警戒態勢解除のシグナルを発する。いや、正確には発しているはずであるが、警戒態勢を敷くよりそれを解除する方が難しいようで、これが神経症の原因になっていると考えられる。でも生存の為にはそのほうが都合が良く、危機にあって安心しきっているより、過剰にパニックになっていた方が安全である。

この神経回路の発見が不安の発生メカニックを理解する鍵となった。この回路理論から行くと、不安は必ずしも外部要因により引き起こされるものでは無くて、むしろ警戒解除の信号を出す部分のメカニズムに異状が起きていると考えられる。丁度、車が暴走して止まらなくなる時、アクセルが踏み込まれたままになっているか、あるいはブレーキが故障しているか原因が2つあるように、神経症でも脳のどの部分に問題があるか指摘するのは容易でない。神経症でもアクセルの役割をする扁桃体が過剰反応しているタイプと、ブレーキの役割をする前頭葉が充分作動していないタイプに分かれるであろう。

あるいは全く脳の違う部分に問題の原因があるかも知れない。アトランタにあるエモリー大学で行動神経科学を研究しているマイケル・デービス氏は、扁桃体の近くにあるえんどう豆サイズの神経の塊を6年間研究して来た。その名前はBNST(Bed Nucleus of the Stria Terminalis)と呼ばれるものだが、この部分にストレスホルモンを注入したネズミは、扁桃体に同じ処置をしたネズミより強く恐怖に反応すると報告している。このBNSTと呼ばれるものが神経症の根源であろうか。面白い報告であるが、正しいかどうかは更に研究が必要とのコメントを得ている。

当然だがこのネズミの結果が、人間にも適用出来るかどうか読者は疑問に思うであろう。生きている人間の脳、扁桃体を解剖して、不安が果たして扁桃体から出ているかどうか調べる事は出来ない。しかし、ここに面白い報告がある。ある女性患者で研究番号SM046としか記述できない人がいて、その患者の調査結果から、人間もネズミも恐怖に関しては何等変わらない事が分かった。

彼女はある特殊な脳の病変を持っていて、彼女の扁桃体は機能していない。その結果、彼女の反応はある一定の場面では普通で無くなる。アイオア大学の研究スタッフが、彼女に種々の顔写真を見せた所、楽しい顔、悲しい顔、怒った顔の写真の判読には問題が無かった。しかし恐怖を示す顔写真からは、感情を読み取る事が出来なかった。写真を見て、激しい感情を示しているには違い無いとだけ答えている。彼女のこの反応こそが、人間もネズミも扁桃体で恐怖の情報処理をしている事を示している。

しかし、脳の一部に機能障害がある患者を使った実験で分かるのはこの位である。普通の傷ついていない脳では、不安はどのように起きているのかは脳スキャンの登場を待つしかない。そしてそれは大変有効な事がわかった。

今までに脳スキャンは卒中、脳腫瘍その他の脳神経障害の診断に多用された。しかし、スキャン技術の進歩により、精神障害で生じた微妙な脳の異変を調べる事が可能になった。「未だ今の脳スキャン技術で診断は無理ですが、ある種の精神障害に関係があるのでは、と思われる脳の特定部位に迫っています」とニューヨーク市ウェイル・カーネル医学大学のデービッド・シルバースウェイグ氏は言う。

あるタイプのスキャンを使えば、脳の組織のサイズ、形を判読できる。2年前ピッツバーグ大学では、不安の強い子供の扁桃体を調べた所、そのサイズが一般の子供に比べて明かに大きい事が分かった。多分、彼等の恐怖回路は普通より大きいのであろう。研究結果からそうだと言いたいのですが、未だ結論は早そうである。別の報告ではPTSD患者の海馬は健康な人のそれより小さいと指摘している。多分、激しいストレスが海馬の機能である、新しい記憶作成に障害をもたらし、同時に過去を忘れる機能にも問題を生じさせたのであろう。しかしこの点に付いては未だ誰も正確には分からない。

もう1つの脳スキャン技術では、脳内のどの部分が最も酸素を消費して栄養を多量に吸収しているか判読できる。マサチューセッツ総合病院のスコット・ローチ氏によると、人が不安な時は脳内である部分が活性化し、その部分が不安に関係があるのであろうと、述べている。ローチ氏の研究チームは、過去8年間に渡り戦争帰還兵の脳を研究している。実験ではPTSDを患っているグループと、同じ経験をしてもPTSDを発病してないグループとに分けている。被験者には、戦場体験を思い起こすテープを聞かせ、その時の脳の活性部位を調査する。今までの所、PTSDグループにより強い扁桃体過剰反応が見られる。更に前頭葉からのシグナルはPTSDグループで弱く現れている。多分この為にPTSD患者は戦場から離れても未だ恐怖を感じているのであろう。

次ぎの段階は、危険な場所に赴かないとならない人々、例えば消防士、警察官の脳スキャンである。脳の微細な変化が悲惨な情景に会った結果起きたのか、あるいは変化は赴く前に既にあったのか、この場合両方が考えられる。ビル倒壊を目の当たりにしたストレスが、普通の扁桃体に過剰反応させているかも知れないし、あるいは既に過剰反応する傾向がある扁桃体が、悲劇を見た後に強く反応しているとも考えられる。

でもやはり環境因子と言うよりも、遺伝子要因が神経症発症にどの程度関わっているのかが知りたい。「今までに神経症は部分的に家族遺伝性があると言われています。だから当然、環境か生まれかの議論になるのです」とリッチモンドにあるバージニア・コモンウェルス大学の精神遺伝学のケネス・ケンドラー氏は言う。言い換えれば、神経症者は生まれつきか、それとも生後経験した何かか、と言う事である。

ケネス等はこの疑問に答える為に、一卵性双生児と二卵性双生児を比較して研究をしている。一卵性双生児とは遺伝子が殆ど一致する双生児であり、二卵性双生児とは兄弟の関係に等しく、一部の遺伝子を共有している。結果は一卵性双生児では二卵性双生児より神経症、恐怖症、パニック障害の一致確率が高い。(PTSDと強迫行為に付いては未だ研究が行われていない)。

「遺伝子の関与率は100%では無く、大体30−40%の範囲内です。結果は予測の範囲内であり、コレステロール値が親の値と似ているのと余り違いません。遺伝子は神経症になりやすさを決定していて、人により神経症になる危険度は大、中、小に分かれるでしょう。それに育ち、経験がプラスされるはずです。例えば神経症になり難い体質の人でも、飛行機事故に巻き込まれると、飛行機恐怖症になる可能性は大でしょう」とケンドラーは言う。

不安や恐怖が脳でどのように形成されるのかは、未だ未知の部分が多い。その中でも最も難解なのは不安と鬱状態の関係である。研究によると、鬱病の成人の子供時代を見ると、大変不安の強い子供であったのが分かる。(子供時代に不安症であったのが成長して健康になるのも又事実である)。これは単なる偶然なのか、あるいは不安は後に鬱病を発病するシグナルであるのか。鬱病患者の脳スキャンを取ると、寝ている時も扁桃体が活発に動いているのが分かる。双子の研究から、不安と鬱には同じような遺伝子が関わっている。「両者には多くの重複が認められる。不安と鬱は基礎部分に共通の生物学的特性があるのでしょう。この種の遺伝子を持つと、初期に不安が発生して、大人になると鬱が出てくると考えられる」とNIMHで神経症研究プログラムの責任者であるデニス・チャーニー氏は言う。しかし誰も決定的な事は分からない。

確かにSSRIと呼ばれる抗鬱剤(プロザック、ゾロフト等)は神経症の治療に効果を発揮している。でも一部の医者はSSRIは鬱病より神経症の治療に有効と考えている。何故SSRIが有効なのか誰も分からないが、はっきりしているのは、効果が現れるのに数週間かかると言う事である。不安を解消する経路は、それを惹起する経路より抑えるのが難しい事を示している。

薬だけが、脳内化学物質のバランスを戻すのに有効か、と思ったらそれは間違いである。大脳皮質を思い出して欲しい。心理療法はこの部分に働きかけて、次第に鎮静効果のあるメッセージを扁桃体に送り込む。暴露療法は海馬に働きかけて、脳が過剰反応しないよう学習させる。しかしそのタイミングは微妙であり、悲劇の起きた直後にそれをしたら、記憶を消すどころか逆に刻み込む効果になるであろう。

治ったからもう大丈夫と言う時期を示すガイドブックは存在しない。去年の9月は、アメリカと言う国全体が国民的規模の不安症を経験した。我々の脳はその傷から立ち直る途上にある。どう上手く立ち直るかは、遺伝子と環境と更なるテロがあるか無いかにかかっている。



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