両親の遺伝子の綱引き


2010年9月13日号
メンデルの法則によれば、自分の持って生まれた性格、才能は父、母から半分ずつ受け継ぐことになっている。しかしこれには以前から疑問符が出ていて、父と母の遺伝形質は平等には伝わらないのではないかと考えられていたが、先月発表された報告によると、やはり両親からは平等に遺伝形質は受け取っていなかった。この非対称的遺伝をゲノム刷り込み(Genome imprinting)と呼ぶが、男女の脳の違いや男女の社会との関わりの違いに関連している。

人は両親から1セットずつ遺伝子をもらう。性染色体以外は母からもらう遺伝子も父からもらう遺伝子も同等に扱われる。しかし両親からもらう遺伝子の伝わり方が同じではないらしい事が、ねずみの胎児を使った研究で明らかになった。この研究では2つのオスから来る遺伝子を持つ胎児と2つのメスから来る遺伝子を持つ胎児を作ろうとしたが、子宮の中で死亡した。やはり自然は両親から1つずつ遺伝子を受け継がないと生きられないらしい。

そこで研究者は正常な細胞を取り入れることによって生存可能な胎児を作るのに成功した。驚いたことに、男のゲノム2つを持つねずみの体は大きく、脳は小さかったのに対して、女のゲノム2つを持つねずみはその反対に体が小さく脳が大きかった。明らかに母と父のゲノムは脳の大きさを決定するのに反対の役割をしているが分かる。

この非対称性はゲノム刷り込みと呼ばれているプロセスで、母からあるいは父から受け継いだある一定の遺伝子のコピーが抑制される現象を言う。最も研究された例にインスリン様成長因子2(IGF-2)がある。この遺伝子は胎児の成長を促すが、父からもらうゲノムでは活性化しているのに対して母からもらうゲノムでは抑制されている。

この刷り込みを説明する主な理論として”親類間の争い”理論がある。
ハーバード大学進化生物学のデイビッド・ヘイグにより打ち立てられた理論であるが、彼によれば胎児と母親には利益の対立があると言う。胎児は出来るだけ自分に栄養を取り入れたいが、母親は次に生まれる子供に栄養を確保して置きたい。

進化の過程でこの対立は遺伝子レベルで扱われるようになった。何故なら父と母は違った目的を追求しているからだ。哺乳類では一般にオスの乱交性癖により衝突が発生する。メスは自分の生んだ子供に平等に栄養を分け与えたいが、オスは自分の生んだ子供だけに興味がある。だからオスは常にIGF-2を活性状態にするし、メスは不活性にしようとする。この刷り込み現象は人間ばかりでなく多くの哺乳類が共有している。

このような遺伝子間の争いが胎児の体の中であるというのは不思議に思うかも知れないが、長い進化の過程でこの争う遺伝子を2つ持つ個体のほうがそうでない遺伝子を持つ個体と比べて、多くの子孫を残したであろうと想像される。

この刷り込み遺伝子が先月までに100種類発見されている。ハーバード大学のクリストファー・グレッグとキャサリン・デュラック等は、刷り込み遺伝子は考えられている以上に頻繁で、その作用機構は複雑であると述べている。

ねずみによる研究から約1,300の同種の遺伝子が発見されているが、デュラックによると人間では約1%の遺伝子がそうではないかと言う。理由としては、人間はねずみに比べてより一婦一夫制で、従って両親の相反する目的が調整されなければならないからである。

デュラックは最新の遺伝子解析技術を利用して沢山の刷り込み遺伝子を発見した。彼女は2つの距離が離れている種のねずみを交配させて、オス、メスどちらから遺伝子が来ているか識別しやすくした。

遺伝子が活性化すると細胞はそれをRNAに転写する。デュラックはねずみのRNAに転写されたコードを読み取りながら、父から受けた遺伝子がより多いか、あるいは母から受けた遺伝子が多いかを調べた。

その結果、期待したより以上の刷り込み遺伝子を発見したが、予期しなかった遺伝子の表現も発見した。胎児の脳では母由来の遺伝子が活発であったのに対して、大人のねずみでは父由来の遺伝子が活性化していた。母由来のinterleukin-18と呼ばれる遺伝子は脳の2つの重要な領域で活性化していた。

それ以外には食べる行動と、ツガイになる行動に関係する脳で父由来、母由来の遺伝子の違いが見られた。この遺伝子は女性に多く見られる多発性硬化症の発症に関係していて注目される。

デュラックはねずみの脳で347の刷り込み遺伝子を発見している。脳の男女の差は今までホルモンの影響によると考えられてきたが、この刷り込み遺伝子が男女の脳の違いを作り出しているのではないかと考えられ始めた。

「我々の脳の中ではお父さんとお母さんが互いに言いあっていると考えると面白い」とデュラックは言う。

脳皮質ではもう一つの予期しない父母の違いがあった。女性では、父からのX染色体と母からのX染色体の2つのX染色体を持つが、一般的に各々の細胞では、父母のX染色体は無作為にスイッチが切られる。しかし脳皮質の神経細胞に限っては、父からのX染色体のスイッチが切られる確率が大いに高かった。

ヘイグは彼の理論で母と胎児の綱引きを説明をしているが、何故脳には刷り込み遺伝子があるのかも説明している。それには父系の家族と母系の家族の利害関係が絡んでいる。

種の保存とは己の遺伝子を次の世代に渡すことであるが同時に遺伝子を共有する自分の兄弟、親戚の遺伝子を渡すことでもある。ウィリアム・ハミルトンが1960年代に提唱した「包括的適応」の考えがそれであるが、先月、Nature誌でハーバードの生物学者のウィルソン等が条件をつけた。

包括的適応の考えには父の親戚と母の親戚の利害対立が考えられていない。多くの場合、女性は自分の故郷を離れて男性とその親戚が住む場所に移動するから、男女ではその遺伝子の分散の仕方が違う。

女性の立場からは、彼女とその子供の安全さえ確保できれば遺伝子を残すことができるのに対して、父は親戚に囲まれているからむしろ利他的行動により自分等の遺伝子を確実にすることができる。このような対立が刷り込み遺伝子を作り出しているのではないか。それは丁度母と胎児が母からの栄養を争うのと似ているとヘイグは観察する。

テネシー大学のフランシスコ・ウベダとオックスフォード大学のアンディー・ガードナーは、女性が夫の村で住む場合の遺伝子の数学的モデルを作って調べた。それによると、自然淘汰は男性側の利他的行動を促す遺伝子と、女性の側の利己的行動を促す遺伝子の両方を選択した。

普通の人では利己的欲求と利他的行為は一定のバランスを保っていると思われる。しかし刷り込み遺伝子では一方の表現が抑制されているから、変異が起きると深刻な問題になる。自閉症はこの刷り込み遺伝子の混乱で起きているのではないかとガードナーは言う。もしヘイグの説明が正しいのであるなら、刷り込み遺伝子は男女の脳の違いばかりでなく心の病気にも大きく関連していることになる。

我々人間は、100万年前に一対の夫婦の関係に進化しているから刷り込みからある程度開放されていると考えられるが、必ずしも完全な一婦一夫制が出来ているわけでないから、不完全な一対からはまだまだ刷り込み遺伝子が生まれる可能性がある。



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