トンネル・ビジョン

2016年9月19日

我々は何気なく外を見ている。子供が遊んでいる姿とか、事務所内の様子、通勤の光景等。何不自由なく全体の情景を見るが、実は脳では個々の物体を先ず認識して、それらを統合して、全体の画像として我々に提供してくれている。

しかし、世界にはこれが出来ない人がいる。同時失認と言う症状を持つ人たちで、部分を見ることは出来ても、全体の画像が見えない。いわば木を見て森を見ずを地で行く人たちです。

ここにアグネス(仮りの名前)と言う、同時失認を患う患者がいて、ある日症状を訴えて医者を訪れた。医師が神経に問題があるのではないかと疑い、検査をした所、常識とは余りに違う彼女の反応に驚いた。彼女は画像を見ても、部分は見えるが、全体が見えない。このユニークな症例を、コロンビア州、ミズーリ大学のジョエル・シェンカー氏が発表した。

テストでは、彼女に次の画像を見せる。そこでは、台所で母親が皿を洗っているが、一方、子供がお菓子を引っぱりだして、ママに見えないように食べている。アグネスに説明させると、彼女はカーテンと窓は見えても、子供がお菓子を食べる様子は見えない。同じ画像を時間をずらして見ると、今度は子供がお菓子を食べる様子は見えても、カーテン、窓、母親が見えない。

これは古典的同時失認の症例で、時々アルツハイマーや痴呆で起きることがある。しかし、彼女は何処も悪くはないから大変好都合な研究対象であり、実験をさらに進めた。

見えない世界
「彼女はこの画像の中に沢山の線を見るが、その線から出来上がる画像は皿一枚だけなのだろう。繰り返し見せたら、画像の全てを認めるだろうが、最後まで全体をまとめることは出来ない」とシェンカーは言う。

驚く事に、彼女は一人で住んでいて、生活に支障はない。「壁にぶつかる事もなく、食材も見えて、十分料理出来るのが不思議だった。しかし、むしろ彼女の方が、検査を要求する私を不思議がっていた」とシェンカーは言う。

これを説明するには、無意識の働きに注目する必要がある。意識では全体の情景を描けないが、無意識がそれを補っているとシェンカーは考える。シェンカーはこれを確かめるために、ストループ・テストと言うものを実施した。ストループ・テストのオリジナル版は、被験者に色の名前を提示してそれを読んでもらう。文字には色が塗られていて、色と名前が一致する場合は早く読めるのに対して、色と名前が一致しない場合は少し時間がかかる。

彼はこれを更にアレンジして、色の名前の代わりに、色の頭文字だけを使う。例えば緑(Green)だったらGであり、赤(Red)はRになり青(Blue)はBになる。被験者は、Gが緑色に塗られていれば、赤色の場合より早く読めるし、同じくBも青で塗られていれば、早く読めて、Rは赤なら早く読める。

更に、R、B、Gを集めて大きな頭文字を作成した。この場合、文字Gから大きなグループ文字Gを作り、しかもその文字の色が緑であれば被験者は一番早く読めるが、組み合わせがバラバラだと、読むのに手間がかかる。例えば、文字Rを集めて大きなグループ文字Gを作り、それが青色であったならば、被験者は混乱し、時間がかかる。

所が、これをアグネスに見せると、なんと彼女は頭文字だけが読めて、グループ文字が読めない。「Bからなるグループ文字Gを彼女は認識できない。彼女の指を持ってGの形をなぞっても、未だ認識出来なかった」とシェンカーは言う。

しかし、彼女に文字に塗られている色を示せと言うと、グループ文字に影響された。これはグループ文字が見える事を意味する。例えば、赤色に塗られたB(青)が大きなグループ文字R(赤)を形成していると、G(緑)を形成しているより読みが速い。と言う事は彼女の脳の一部が、大きなグループ文字を認識している事になる。

意識しているのか、してないのか
我々は何となく周囲を見ている分けだが、それで問題は起きない。その分、意識を必要な物事に振り向けられる。分かり安く説明するために、シェンカーは”カクテル・パーティー効果”を出して説明する。

貴方は今カクテル・パーティーでジョージと話しているとする。隅の方ではサリーとデイビッドが話している。会場には沢山の人がいるから騒めきがあり、恐らく、サリーとデイビッドの会話は聞こえない。しかし、サリーが何かの拍子に貴方の名前を言ったら、直ぐ反応するだろう。名前の直前の言葉まで聞こえたかも知れない。

どうしてこんな事が可能なのか。我々の脳は無意識に自分の周囲の環境に注意を払っていると考えるべきでだ。何か普段と違う事が起きた時、この場合は自分の名前を呼ばれた時だが、情報処理は無意識から意識に切り替わるとシェンカーは言う。

「アグネスの場合は、見ている情景を全て脳に送っていた。しかし、意識の脳がそれを統合出来ないだけだ。生活に何の障害もないと言うのは、無意識からの情報が十分に役立っている証拠である。我々の生活も、莫大な量の情報が無意識下で処理されている。そして必要な時にだけ意識に送られる。素晴らしいことではないか」とシェンカーは言う。

火事だ、火事だ
無意識下で情報処理する例はまだ沢山あると、ミネアポリスにあるミネソタ大学で認識を研究しているカーステン・ダリンプル氏は言う。ブラインドサイトと言う症状があって、この人たちは物が見えない。しかし、障害物が置いてある通路を避けながら歩ける。何故こんな事が出来るのであろうか。それは、物が見えないのは目ではなく、目から入る情報を処理する脳に問題があるからだ。目には問題がないから、目からの情報は無意識脳に伝えられ、ここで処理された後、彼等を補助する。

もう一つの例として、視覚無視と言われる症状がある。この症状を持つ人たちは、物の片側しか認識出来ない。彼等に左側だけが燃えてる家を見せると、左視覚無視の人は家と言うが、家の右側だけが燃えている画像を見せると、火事と言う。
しかし、その人に、火の出ていない家と、左側だけ燃えている家を見せて、どちらの家に住みたいかと質問すると、火の出ていない家を選ぶ。彼等は、意識では火事が見えないが、無意識レベルで火事を見ている。

意識、無意識の使い分けによる注意の巾の変化を、”注意の窓”の変化とダリンプルは呼ぶ。我々が大きな道を歩いていれば注意の窓は広く、自分を取り巻く全体を見ている。しかし、そこに突然リスが横切ったとすると、注意の窓は狭くなり、動物に神経は集中する。この瞬間、道路全体の出来事は背景に後退する。

この技術を使うのが手品師で、彼等は指を鳴らしたり、手を動かしながら、我々の注意の窓を一か所に狭める。その時、手品師は注意の窓の外側にある物を動かしてしまう分けだ。注意の窓をコントロールするのは、脳のどの部分であるかははっきりしないが、頭頂葉と後頭葉が共同作業しているのだろう。この2つの分野は、物体、動き、空間を認識している。

ダリンプルの患者に同時失認の人がいて、その人は頭頂葉と後頭葉に損傷を負っていた。患者は怪我が回復するにつれて、注意の窓は次第に大きくなり、同時失認が軽快した。

アグネスの場合、同時失認の症状が生まれた時からあったのか、あるいは人生の後半で起きたのかハッキリしないが、脳スキャンを見る限り健康に見える。ただ、頭頂葉に小さな萎縮があり、これはアルツハイマーの前触れの可能性があり、これが症状を引き起こしている可能性もある。

残念ながら、最後までアグネスは私に疑問を持っていたらしく、「私の脳は正常ですよ。先生は何をそんなに驚いているのですか」と言いながら、彼女はテストには来なくなった。



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