最初は一人の声であった。天井から大きな男の声で「おーい、ジョーン」と友人のように呼びかけて来た。その声の持ち主をジョーンは悪魔と呼んでいるのであるが、他人の脳の細胞を盗むようにけしかけたり、彼の脳には悪性腫瘍があると言ったりした。
次第に呼びかける人数は増えてその数は50人にも及び、男性も女性もいた。彼等は全員がメガホンを当てて叫んでいるようようであった。その呼びかけは朝から晩まで続き、ある日には電話を取るとコーラスのように大勢の声で「お前は犯罪を犯した」と電話機から鳴り響いた。「正直、絶望と混乱であり恐ろしかった。この声がまとわりついて離れなかった」とジョーンは言う。
幻聴は分裂病の典型的症状である。アメリカには280万人の分裂病患者がいるが、その50−75%が幻聴を聞いている。多くの分裂病患者は長年幻聴に苦しめられていて、ジョーンの場合も1981年に分裂病と診断されている。分裂病患者には自殺がしばしば認められ、死のみがこの苦痛から逃れる手段のようにも見える。
今まで大半の精神科医は患者の幻聴の訴えを真剣に取り上げなかった。単に分裂病脳が作り出したおかしな現象であり、研究する価値が無いとして無視してきた。しかし最近は幻聴を取り上げて研究をする動きがある。研究者は幻聴を訴える患者を熱心に聞き、その脳を最新の技術でスキャンをした結果、幻聴を聞いている脳では脳の一部が活発に作動しているのが分かった。
研究結果を踏まえて低周波の電磁波を患者の脳に照射する治療技術が開始され、今までの投薬では解決しなかった幻聴の抑制に一部成功している。幻聴を更に研究して行くと、分裂病とは一体何であるかが分かるであろうと研究者は言う。その研究結果が分裂病以外の心の病にも応用される可能性がある。
「今私が行っている治療は分裂病の基本に迫るものなのです」と経頭蓋磁気刺激装置を使って研究をしているイェール大学のラルフ・ホフマン氏は言う。Archives
of General Psychiatry誌の最近号に載った研究によると、、磁気照射を受けた患者と偽装置で実際には磁気照射を受けていない患者を比べた所、9日間に132分間照射したグループでは明らかな幻聴の減退効果が見られたとホフマンチームは報告している。中には約1年も幻聴を抑えるのに成功した患者もいたが、半数が12週間以内に元に戻っている。被験者は全員投薬も受けている。
幻聴は単に聞こえるだけでなく、患者を説教をし侮辱し、本人や他人を傷つけるよう扇動したりすると患者は言う。多くの場合、ストレスが強いと幻聴も更に強くなる。
オーストラリア、メルボルン市にあるビクトリア精神医学研究所のデイビッド・コポロフ氏と研究グループは分裂病を含む精神病患者200人を調査して、74%の患者で一日に1回以上の幻聴を聞くと発表している。80%の人が幻聴を極めて現実的な声として聞いている。34%が声は自分の外から聞こえたと言い、38%が自分の内からも外からも聞こえ、28%が自分の中からだけ聞こえたと答えている。
患者の中には数は少ないが、幻聴が結構役に立つし、声の調子も元気付けるものであったと言う患者もいた。しかし70%以上の人が幻聴は良くないものであったと報告している。
イェール大学のホフマン氏の報告では、幻聴が間歇的に聞こえる患者もいるし、連続して聞こえ、止むのは寝るときだけという例もあった。自殺した女性患者の場合、幻聴は絶え間なく続く精神的強姦であると表現している。
1985年に分裂病と診断されたニコール・ギルバート37歳(女性)はもう何年も本は読んでないと言う。何故なら、読もうとすると、この本はお前の事を書いていると幻聴が言うからだ。
「幻聴は、私に自分はイエスキリストであると信じさせようとした。私をうんと苦しませてから、今のは冗談だ、お前は馬鹿だ、何故こんな事を信じるのだと言って苦しめた」とギルバートは言う。
ギルバートは今は快復してカリフォルニアの精神医療施設で患者の援助活動をしている。彼女によると幻聴は真に迫っていて、友達がそれが幻聴だと言っても全く信じられなかったと言う。
陽電子放射断層写真撮影装置 (PET)や磁気共鳴撮影装置(fMRI)を使用した研究によると、聴覚の幻覚はかなり深刻なものである。幻聴を聞いている時の患者の脳を観察すると、聴覚、言語、感情、記憶のそれぞれの中枢では血液流量が増加していて、神経細胞が活発に動いているのが分かる。
「この人達は狂っているのでは無い。脳がどう反応しているかを我々に率直に伝えているに過ぎない」とコーネル大学のウェイル医学分校のデイビッド・シルバースワイグ氏は言う。だが研究結果は人により違ったデータが出ている。例えばフィリプ・マグアイアー氏(ロンドン大学教授)とホフマン氏の率いるチームではブローカ野(前頭葉の一部で言語の認識と組み立ての中枢)で活発な活動が見られたのに対して、間もなく発表されるシルバースワイグ氏とコポロフ氏の研究ではそのような結果は出なかった。更に幻聴を聞く時の患者の側頭葉と頭頂葉の動きについても研究により違うデータが出ている。
この違いを説明するのは容易でない。何故なら、この最新の機械を使っても脳の複雑な動きを捕まえるのは難しいからだ。またこれらスキャン装置を使う研究が大変なコストがかかり、研究の幅が制約されるからである。しかし出てくるデータが違うと幻覚を説明する理論も違ってくる。
分裂病は思春期と青年期に多く発病する。最近の20年ほどの広範な研究から、分裂病の脳は健康な脳とは多くの面で異なる事が分かって来た。原因としては遺伝子傾向と環境の両方が絡んでいると現在考えられている。研究者が一致するのは、分裂病患者は脳内から発せられる信号を間違って解釈しているとする考えだ。しかしどんな信号が間違って解釈されているのか、あるいは何故起きるのかは未だ分かっていない。
コポロフ氏の説明では幻聴は聴覚記憶の断片であり、それが感情と融合した形で患者に意識され、患者には外部から聞こえたと感じられる。海馬等の記憶中枢が幻覚作用の最中に活発化している事実がこの説明を支持している。
ロンドン研究所のマッグワイア氏等は別の考えを持っている。我々が思考をしている時、我々は内なる会話をしているが、この内部会話を間違って解釈するのが分裂病では無いかと説明する。この理論で行くと、分裂病患者では自分の内なる会話と他者との会話を分離するメカニズムに故障が起きている事になる。
スタンフォード大学の心理学助教授であるジュディス・フォード氏とイェール大学心理学助教授のダニエル・マサロン氏はこの障害は聴覚野で起きていて、その為に内、外の会話の分離に成功していないと見ている。彼等は分裂病グループと健康グループの聴覚野の電気信号を調べた。健康グループでは聴覚野が内なる会話を抑える動きを示したのに対して、分裂病グループではその動きが弱かった。
「我々が、例えば何かを考えている時は聴覚野の反応を抑えている。『オイ,今しゃべっているのは自分だから気にするな』と自分に対して言っている。しかし分裂病患者では健康な人がする内なる会話を制御する装置が壊れているのだろう」とフォード氏は言う。
ホフマン氏は少し違う考え方をする。脳の灰色物質の減少がブローカ野(言語の作成に関連)とウェルニッケ野(言語の認識に関連)の連絡を増幅させている為では無いかと言う。
「普通の状態では、ウェルニッケ野は遠いブローカ野からの情報を受けているが、同時に近くの脳組織からも多種の情報を受けている。しかし、分裂病患者では上部側頭葉(ウェルニッケ野が存在する)の灰色物質が健康体に比べて減少している為に、近くの脳から来る情報が消されるか、大幅に妨害されているであろう。もしそうならば、ブローカ野から来るシグナルは強くウェルニッケ野を刺激する事になる。すると内なる会話であるはずのものが、ウェルニッケ野は外部から来た会話と認識する」とホフマン氏は解説する。
「経頭蓋磁気刺激装置で分裂病患者のウェルニッケ野に電磁波を与えると幻覚が減少する場合もある。私の考えでは分裂病は単に内部会話を間違って解釈したり、聴覚記憶の異常があるだけでなく、あたかも外部から話が聞こえるような知覚異常を経験している事だと思う」とホフマン氏は言う。
ホフマン氏の研究チームはMRIスキャンを使って、患者が幻覚を経験している時の脳の状態と、電磁波で刺激した時の脳の変化を映像で調べている。研究結果がどう出ようとも、既に25%の患者ではこの経頭蓋磁気刺激装置で幻聴が抑えられている。「脳の一部をこの装置で刺激するだけで従来の薬では期待出来なかった大変な効果を示している」とホフマン氏は言う。
この装置には8の字型をした電磁コイルがあり、これを患者の頭部に当てる。電磁コイルは25セント硬貨程の大きさの磁場を発生させる。装置は高速で磁場を点滅する。すると患者の大脳皮質灰色物質中に電磁帯を発生させる。
研究者はまだ何故この装置が効果があるのか説明出来ない。恐らくニューロンの活動を抑えて、その効果が他の脳の分野に影響を与えると考えている。重度の鬱病に使われている電気ショック療法と違い、経頭蓋磁気刺激装置は患者にひきつけを起こさないし、脳の一部に選択的に照射出来る。当然記憶喪失のような深刻な副作用も無い。よくある副作用は軽い頭皮の収縮で、多少患者は不愉快を訴える。覚醒した状態で治療を受けていて、麻酔は使用しないからその負担も無い。
昨年の夏に治療を受けた一人であるジョーンは「この装置は頭を軽くたたく感じで、決して脳内に侵入するような感じではないです。治療後、幻聴は静かにはなりましたが、消えてはいません。効果は6ヶ月だけ持続しました。以前は幻聴と仲良くしようとしましたが、それは良くないと感じました。長年幻聴に振り回されて来ましたが、今後は逆に幻聴を振り回してやろうと思います」と言う。
脳科学ニュース・インデックスへ