人間のモラルについて

2007年11月21日

もし人類全体がたった一人の人間であったら、その人間はとっくに気が狂っていただろう。狂気は人間の怒りや暗さの中に宿っているものでもないし、人間の崇高な心に宿っているものでもない。。確かに狂気は暗く荒れ狂ったものではあるが、同一人物の同一の時間に、獰猛と美しさの両方に同時に存在している。

我々人間は、また大変親切な生き物でもある。互いに看護し、愛し合い、一緒に泣く。科学が進歩した今では率先して自分の体を切り、臓器を愛する人に提供する。人間はまた殺し合いもする。過去15年間に恐ろしい悲劇を、モンガディシュに、ルワンダに、その他チェチェン、ダフール、ベスラン、バクダッド、パキスタン、ロンドン、マドリッド、レバノン、イスラエル、ニューヨーク、アブグレイブ、オクラホマシティー、アーミッシュの学校で見た。これらの犯罪は全て地球上で最も高度に頭脳が発達した人類により行われている。人類とは程度の低い、残酷で血にまみれた生物であると認めなければならないのか。

人間の行動を深く科学すると、人類が地球上のユニークな存在であると言う自惚れがあやしくなって来る。我々は今まで唯一言語を話す動物と信じてきたが、ゴリラやチンパンジーも身振りの言語をマスターする。人間だけが道具を使いこなすと思っていたら、実はカワウソも石を使って貝を割るし、猿は枝を折り葉を取ってシロアリの穴に突き刺しシロアリを釣り上げる。

我々が他の動物と違うのは、我々の高度に洗練された道徳であり、他者の痛みを共有する感覚である。これこそが人類特有の精選された感覚であるはずだが、しばしば人類はそれ逸脱して大量殺人をする。

道徳とは難しいが、実は意外と早く我々はそれを身に着ける。就学前幼児は教室で食べるのは良くないと知っている。なぜなら先生が駄目と言うからだ。もし先生が食べても良いと言えば幼児は喜んで食べ始めるであろう。でも先生が他の子供を椅子から落としても良いと言ったら子供は躊躇するであろう。「先生、それは駄目だと子供達は言うであろう」と心理学者のマイケル・シュルマンは言う。上の2つの例の場合、誰かが子供に良し悪しを教えている。しかし他の子供を椅子から落としてはならないは、より強制力があり、目上の者が黙認しても実行出来ない。これこそが単なる道徳と社会の約束の違いである。シュルマンは子供はこの違いを生まれながらにして感じていると言う。

もちろん子供も、分からなければ誰かを泣かしても良い思う時もあるであろう。泥棒や残虐な独裁者も同じで「道徳には決まりはなく、判断は人それぞれと言うことになります。直感的に我々が感じる道徳は決して何時も遵守しているものではありません」とハーバード大学のマーク・ホイザー教授は言う。

この直感は何処から来るものであろうか。何故我々は直感を感じつつ矛盾を起こしてしまうのであろうか。専門家は動物の行動を研究し、部族の行動を研究して答えを求めようとする。最近は脳スキャンで脳の反応を調べている。これらの研究が我々の行動を良い方向に導くわけではないが、少なくても今後起きる人類の悲劇を少しでも減らす方向に役立つであろう。

道徳の猿
道徳の基礎は共感であり、自分に痛いものは他人も痛いはずであると感じる心だ。人間だけと思っていたら実はこの共感は多くの動物も共有する。我々よりはるかに単純に出来ている動物でも共感に似た行動を示すことがある。行動習性学者はこの共感を利益目当ての取引と見る。例えば今日食事を与え宿を与えれば、明日の見返りが期待できる。なるほどある動物のグループが、このギブアンドテイクをうまくやればそのグループは繁栄する。

しかし動物にも更に豊かな道徳がある。これを最初に発見したのはは20世紀前半に活躍したロシアの霊長類学者であるナディア・コートで、彼女は自身が飼っていたチンパンジーでそれを認めている。彼女の飼うチンパンジーは、一旦家の屋根に上ると、呼んでも叱っても、あるいは食べ物でおびき寄せても下りてこなかった。しかし、彼女が座って泣いている振りを示すと直ぐに下りてきた。「あたかも心配したように、私の周りを駆け回り、彼の手で私のあごをやさしく撫でて一体どうしたのだと語るようなしぐさをした」と彼女は述べている。

このような事例は20世紀前半にまで戻って調べなくても見つけられる。例えば1996年に起きたゴリラのビンタ・ジュアの話であるが、ある日に3歳の男の子が動物園のゴリラの柵の中に落ちてしまった。それを見たビンタ・ジュアはその子を抱き上げやさしく揺らしながらドアーの方へ向かった。そこでトレイナーが入って子供を抱き戻した。「共感は重層的なもので、その中の重要なものを人間は動物と共有している」とエモリー大学の霊長類学者のフランスデワール氏は言う。

動物で共感を直接測定するのは難しいが、人間で測定するのは簡単である。ホイザーは次の研究例を引用している。その研究では配偶者、あるいは結婚していないカップルを被験者にして弱い痛みを感じさせるテストする。脳の反応は核磁気共鳴スキャン(fMRI)で調べられる。被験者は苦痛を受ける前にそれを告げられが、脳は弱い恐怖を示す反応をスキャンに示す。次に彼等のパートナーあるいは配偶者が痛みを受けると告げると、自身には痛みが無いにも関わらず彼等の脳は自分が痛みを感じたように反応した。「これはまさしく人の痛みを自分の痛みと感じるている」とホイザーは言う。

脅威が更に複雑になると脳の反応も複雑になる。道徳を研究する専門家が好むシナリオに、トロッコジレンマと言うのがある。レールの傍に貴方は立っているとする。そこに暴走したトロッコが猛進して来る。レールの前方には猛進するトロッコに気がつかない5人の作業員がいる。貴方の横にはレール切り替え機があり、トロッコを側線に向かわせる事が出来る。貴方ならどうするか。もちろん側線にそらして5人を救うだろう。しかし側線上にはもう一人の人が気がつかないで立っていたとしたらどうするか。5人死ぬか1人死ぬかの問題である。5人を救うために1人を殺すか。また、トロッコの上に橋があり、この上に1人が作業している。この人をレール上に落とせばトロッコは止まる。この人は大きいからトロッコを止めることが出来るが貴方は小さくて止められない。トロッコが止まれば線路上の6人の命は助かる。落とし方としては、スイッチを押すと落とし戸が開き人が落ちる。

脳スキャンをしながらこのようなジレンマを起こさせると、脳は複雑な反応をする。トロッコを側線に導き5人を救って1人が犠牲になると、前頭前野背外側部(落ち着いた功利的判断をする場所)の活動が活発になる。5人を救うために人を落とすことを考えるような複雑な思考の時は、前頭皮質中央(感情に関係がある)が光る。もしこの脳の2つの部位が争うと我々は不合理な決定をする。最近の調査では85%の人は5人を救うために人を線路に落とさないと回答した。「我々の脳は一体どう動いているのであろうか。側線に導く時は一人の犠牲は構わないと判断したのに、自分が人を落とさなければならない時は一人の犠牲はだめなのだろうか」とハーバード大学の助教授であるジョシュア・グリーン氏は言う。

善を保つためには
単に道徳プログラムが用意されているだけでは不十分だ。道徳プログラムを立ち上げたり、それを正しく読み込むものが必要になる。ホイザーは我々全員がある種の道徳文法を生まれながらにして持っていると考える。これは人類特有の言語能力のモラル版である。言語が形成されないなら統語論が意味を成さないように、善悪の基準は誰かが貴方に実際問題でどう当てはめるかを教えない限り意味無い。

それを教えるのが我々の社会であり大体上手く行っている。ここでも道徳を教えるシステムを思いついたのは人間だけではない。オランダのアーンヘム動物園で目撃された事件であるが、飼育係りのデワール氏は、猿が逸脱したメンバーにグループの約束を迫るのを見て衝撃を受けている。ある晩に飼育係りがチンパンジーを集めて食事を与えようとした。この動物園ではチンパンジーの全員が集まるまでは食べ始めない約束があった。しかし2匹の若い猿がわがままを言い集合しなかった。その2匹がやっと来るまでに大分時間がかかり、その間に腹を空かした他の猿たちの雰囲気が険しくなった。その晩は怒った他の猿からの攻撃を避けるために、飼育係りがその若い2匹を別の場所で眠らせた。次の日、この2匹はグループから隔絶され、グループからしたたか殴られた。懲らしめられた2匹は次の晩から最初に集合するようになった。動物には動物の従わなければならないルールがあるとデワールは学んだ。

人間社会にも守るべき義務は存在するが、それは社会により様々に変化している。例えば良きサマリア人の法では、誰かが困難な状態にある時、通りかかった者が助ける義務があるという。しかし実際には近くの者は救い、遠い者は無視しろになる。理由の一つに、自分の身近で苦しんでいる人を見れば実感が迫ってくるのに対して、遠くの者の苦しみは実感がわかない。また、その昔自分等の部族のメンバーを救うのは部族の維持に重要であったのに対して、遠くの部族の誰かを救うのは自分たちに脅威になる可能性もあったからだろう。

21世紀の今日でも原始的2分法を引き継いでいる。すなわち、ニューヨークの地下鉄のホームから落ちた人の上に重なって助けた例があるのに、ダフールの虐殺に一向に興味を示さないのがそうだ。「地球の裏側の人達に物質的援助するようには我々の脳が出来ていないのですね」とグリーンは言う。

見知らぬ人を助けなければならないとする国はほとんど無いが、フランスは違う。ここでは人が危機に瀕している時に、そこに通りがかった人が助けなかった場合、犯罪として罰せられる。アメリカでは作為と不作為の違いをはっきりさせているが、フランスではその違いも否定してしまった。

道徳を作るのはそれぞれの社会であり、国に頼る必要は無い。効果的な手段として除名がある。その昔、人の属する部族は食べ物を供給し家族とメンバーを外的から守った。だから除名される事は命に関わることであった。ローマンカソリック、アーミッシュ、エホバの証人では、彼ら独自の除名処分をしていて、それぞれ破門とか会員権制限とか呼んでいる。アメリカの軍隊も規律を保つために不名誉除隊という処分があり一種の除名である。この処分を受けたものは生涯暗い評価を負って生きることになる。

時に、ある社会のメンバーが許されない行為を行った場合、除名は自然に起きる。1995年のOJシンプソンの裁判でシンプソンは無実になったが、多くの人の憤激を買った。社会全体が彼を拒否し、雇用を拒絶し、カントリークラブから除名し、レストランでは食事のサービスを拒否した。 今年の11月には、OJシンプソンの本の発行人が以前彼女を雇っていた会社に対して、拒絶と侮辱受けたとして裁判に訴えた。その会社の取った態度こそがまさしく社会のモラル維持に必要な除名なのだ。「人間は捕食者に対しては弱い存在であった。だから部族から八分にされるのは大変恐ろしいことだったのでしょう」とウィリアム・メリー大学の生物人類学のバーバラ・キング氏は言う。

何故我々は悪くなるか
これだけ沢山の道徳律があるのにどうして時々我々は乱れてしまうのであろうか。それには精神異常の問題があり、ある意味で避けがたい。法廷では余程の精神異常を認めない限り、被告を無罪にしないから、心にハンディーキャップがある人には大変である。

連続殺人を犯す人間は、犯罪を認識しながらも実行する。神経科学者は、脳の破壊が如何に人を冷酷にするかを1848年に起きたバーモント鉄道の作業員フィニー・ケージに見る。彼は爆発事故で飛んできた鉄片が彼の前頭前野皮質に突き刺さり、それが破壊された。奇跡的にも生き延びたが、それ以来彼の人格は変わり、犯罪こそしなかったが、不遜になり人との関わりが消滅した。フィニー・ケージの一件以来、専門家は異常人格者の原因を脳に求めるようになった。

雑誌”ニューロイメージ”に掲載された次の研究がある種の回答を提供するかも知れない。この研究では、20人の健康な人に順法、違法行為のシナリオを見せ、その反応を脳スキャンで調べた。この仮定の犯罪シナリオで最も強く反応したのは扁桃体であった。扁桃体はシナリオの激しさに応じて反応が上下した。扁桃体は悪い行いとその結果待ち受ける罰を予測する。トロッコの研究でも示されたように、道徳の行使にはまた前頭前野皮質も加わる。

幸いにも我々は連続殺人犯のようにモラルを逸脱することは無いが、小さな逸脱はよく起きる。問題が起きるのは、我々の家族、社会、職場のメンバーに対してではなく、我々社会の外にある部族に対してである。

外部の人間の取り扱いはホモサピエンスに取って大変難しい。社会生物学では、人間を含めて生物は全て次ぎの世代に出来るだけ多くの遺伝子を残そうとすると表現する。すると、あらゆる生物は自らの種を最大限に大事にするのを許されるが、この偏向が逸脱を起こす。

ニューヨークのヨンカーズにある非行青少年更正センターで働いている心理学者のシュルマン氏は、ある日の事件で衝撃を受けた。この事件では3人の少年が年老いた女性を襲ったのだが、3人の内の1人は「お年寄りは襲わない。私のお婆さんかも知れないからだ」と言った。では誰なら襲って良いのかとシュルマンが聞くと「中国人の配送係りだ」と言う。「お年寄りの痛みは感じるが中国人の配送係は文字通り外人で襲っても良いと考えている」とシュルマンは説明する。

このような外部の人間と内部の人間を区別する道徳は至る所にみえる。例えば暴力団であるが、彼らは自分のグループに対しては忠誠を尽くすが対立するグループには容赦なく臨む。その凄まじい例は戦争に典型的に現れ、敵国の人間を人間扱いしない結果、大量殺人が発生する。ナチドイツや崩壊したユーゴースラビアについては多くの本が書かれている。アドルフ・ヒットラーやスロドバン・ミロセビッチを捕まえて心理分析することは出来ないが、彼らが外国人への嫌悪を煽ったのは確かである。

「ユーゴースラビアの例は、現代の外国人大量殺人です。同様な例がルワンダ、ナチスドイツでも起きている。大量殺人には、必ず同族意識を煽る扇動者がいる」とバージニア大学の心理学者であるジョナサン・ハイト氏は言う。

でも扇動者に煽られても殺人に手を貸した人の責任は免れない。ニュールンベルグの裁判で検察官が戦争犯罪を暴いたし、第2次世界大戦中に危険を顧みずにユダヤ人の出国を助けた例もある。イラクではシーア派の民兵が殺せと命令したにも関わらず近所のスンニー派の人々を救った人達がいた。

我々人間には真の道徳の発達は最も難しい問題である。向かい合わせの親指と脳の発達により、道具を使うことを覚え地球を制した。しかし知恵の発達は体の発達に間に合わない。我々が真の文明を打つ立てるまでに、まだまだ残忍な殺し合いが起きるであろう。唯一の希望は、今後起こりうる殺し合いは過去のそれより少ないと望むだけだ。



脳科学ニュース・インデックスへ