ブルース・リー

先日、何気なくブルースリーのドキュメンタリー番組を見ていて、彼の武術のさえに強い印象を受けた。そして彼が禅の「無」に通ずる言葉を披露したのでこのページを書く気になりました。
ブルースリーは、アメリカに生まれて幼くして両親とともに香港にもどり、香港で育ち中国武術を身につけた。広東演劇の役者である父親の影響もあり、小さいころから映画に出演している。
18歳で単身アメリカにわたり、苦学してワシントン大学哲学科を卒業し、以後武術家としてカンフー俳優として成功をおさめる。しかし一時香港に帰郷した時、頭痛に襲われ、弱冠32歳でそのまま帰らぬ人になってしまった。死因はその晩に飲んだ鎮痛剤の副作用による脳浮腫と言われている。

私は武術、カンフーにはまったく素人であるが、私が見ても彼の武術にはキレがありその魅力に引き込まれる。その彼がこんな事を言っている。
水のように形をなくせ。水は瓶に入れれば瓶になり、茶器に入れれば茶器になる。水は流れ、岩をも壊す。
またこうも言う。
以無法為有法 以無限為有限
型を持てばそこに限界が生まれる。形式の檻にとらわれれてはならない。 形式を捨て去れば、無限の答えを得ることができる
斎藤療法の「無」に一致するのが分かると思う。やはり東洋の武術家であり、彼の極意は禅の「無」であった。「無」の中にすべての可能性があると考える思想は、西洋の文化にはない。カンフーの俊足の業を見ていると力が入っているように見えるが、実はその本質は水のようであったとは驚きである。水なら岩に当たれば砕け、急流を下り、溜まりでは速度を落しと自由自在に変化する。

「無」を唱える斎藤療法にも形はない。すべてはゼロであり、ゼロはすべてである。ゼロであるからこそ、どのような事態にもすぐさま順応して対応を誤らない。もしそこに形があると、入ってくる情報に色がかかり本質を見失ってしまう。

コンピューターで例えればメモリーの動作にあたり、ゼロとはメモリーに何も詰った情報がないことを意味している。当然新しく入る情報はすぐさま処理され、他の回路に回されディスプレーに表示される。メモリーの容量が小さかったり、過去の情報が詰っていれば処理速度は遅くなり、悪くすればフリーズする。
It is like a finger pointing away to the moon.
Don't consentrate on the finger,or you will miss all that heavenly glory.
木を見て森を見ずのブルースリー版といえる。
彼の武術に魅了されて是非彼の技術を身につけたいと考える人は多いと思う。しかし、彼は体の動きだけを見てはいけないと諭しているように見える。指を見るのではなく、指差す先を見よと言う。

「無」とは無意識の動作と斎藤は説く。ブルースリーのみならず格闘技をマスターした人たちは、すべて自分の体がおぼえた瞬間の動きに支えられている。前頭葉の無駄な思考を停止させ、相手の全体を見て、一瞬の動きを察知するや否や、無意識に蓄えられたプログラムで相手を倒す。
健康な人も武術と同じで、過去に蓄えられたプログラムで動いている。唯一異なるのは、武術では心は流浪していないのに対して、健康な心では心は大いに流浪している。雑用の処理の最中には相手に倒される危険がないから当然であるが、その心の流浪のおかげで思考は多岐にわたり、我々の生活に関わるすべての雑務をバランスよく処理して快適な生活が出来る。

彼は森田療法の誤りも指摘しているから面白い。
あるがままの状態は、思考によってもたらされ、あるがままで居ることによって、真の思考が可能になる。 しかし、あるがままで居ようとすれば、あるがままを汚すことになる。
あるがままとは健康な状態であるが、健康な人は、あるがままで居ようとは考えない。自然にしていれば、自然にあるがままになっているからである。神経症者があるがままになろうとするのは、そこに取引があり、そうすれば神経症が治ると考えるからだ。しかし実際にはあるがままを言いつつ、神経症者はいよいよ狂いの世界を突き進むことになる。

健康世界ではこのように、言葉をいじくりまわすことを嫌う。そんな空しいことを言っていないで、この良い天気にいくらでもやることがあるであろうと思う。布団を干したり洗濯したり、たまったEメールの返信をしたりと、一刻も立ち止まっている暇はない。
しかし15年以上このホームページを運営しているが、動きを言う神経症者にあったことがない。多くがだらだらと心理分析を書いて送ってくる。このような人が家の中で動かないでじっとしていたら、家人の大変な迷惑になるし、会社に出て来てもとても戦力にはなり得ない。



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