頭は神経症の分析ばかり


私は神経症を30年やり、神経症を抜け出して弱30年経ち、幸いなるかな、神経症を内側と外側の両方から見て来た。
神経症を内側から見ると、まさに狂いの世界であり、脳はこんこんと神経症のことばかり考えている。自動思考になっていて止めようとしても止まらない。暴走状態と表現しても良く、朝起きてから寝るまで頭は神経症の事ばかり考えている。

神経症者にとって神経症を考えることは当たり前のように感じるが、実は薬物依存症の薬物接種に似ている。薬物依存症では、薬物を接種した所でもう多幸感などは起きないが癖になっていて止める事が出来ない。それ以上に薬物の接種を停止すると激しい離脱症状が襲って来て、命に関わるほどだからだ。

神経症者の神経症思考も同じで、神経症分析をしても最早安心感は得られない。しかし、それをしないと居ても立っても居られず、猛烈な情緒不安定が襲ってくる。10分も経たない内に元の神経症分析を再開してしまうだろう。

健康な脳ではこのような現象はなく、脳の思考は秩序だっていて、多くの場合は過去の経験を通して書き上げられた無意識ソフト上で体は動いているから、考える必要がない。脳がこのような健康状態だと、人は、自分が今何を考えているか意識しない。

神経症者の、のべつ幕無し神経症思考で果たして仕事が出来るであろうか。大変難しい。仕事の質はかなり落ちているし間違いが多い。

最大の問題は閃きの喪失だ。閃きとは、無意識が産出する奇跡と言っても良い。誰にでも起きる現象で、ある物を思い出したり、判断が出来ず先送りしていた問題の解決方法が浮かんだり、今週の週末に何処かに行きたいと心が踊るのも閃きの一種だ。この閃きがあるから、人生が楽しく、問題を解決し、夢を追う事が出来る。閃きと言う有力な心の武器が消えてしまったら、もう人の人生はロボットのようなものだ。

掲示板常連の書き込みを読むと、毎回念入りな神経症分析をしている。ある人は、50年前、70年前の森田の話だ。関係者の多くは既に死んでいるのに今頃幻想に浸るように書き続ける。医学では特に最新の機器が活躍しているが、聴診器の時代の話を持ってくる気持ちが分からない。

また、既に信頼を失っている似非科学からの引用も多い。右脳左脳がその例で、今から30年前に流行した似非科学で、大衆が喜びそうな脳科学の走りでもあった。最近では右脳左脳の記事を目にする事は殆どない。脳の基本的メカニズムの解明がまだ進んでおらず、右脳左脳を論議する遥か以前の段階で困難を感じているからだろう。

精神分析もインターネットが登場する前までは、有力そうに見えた。当時ニューズウィークの英語版を読む限りでは、アメリカ、南アメリカでは心に問題を抱えた比較的裕福な人が、精神分析の治療を受けると聞いていたが、インターネットの幕開けと同時にこの話が瞬間に消え去った。

精神分析に通う患者がいたのは事実であろうが、それは人々が無知であったからに他ならない。インターネット開始と共に、情報は堰を切ったように出され、容赦ないフロイト攻撃が始まった。フロイトの治した患者の話は皆彼の作り話であり、彼が治した患者はゼロであると批判された。

もう一つ精神分析に引導を渡したのに抗鬱剤がある。SSRIと呼ばれる新しいタイプの抗鬱剤が市場に現れ、従来の抗鬱剤にあった激しい副作用が殆どない、夢の薬としてもてはやされた。プロザックが登場以後30年経つが、今だ SSRIが果たして心の病気を治すかどうかはっきりせず、むしろ離脱症状に苦しむケースが多く報告されている。皮肉な事に抗鬱剤の最大の成果は、精神分析を強制退場させた事であった。



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