掃除を100回する


斎藤もフラッシュバックに入ると同じ間違いをするから、人の事を言えないが、神経症者は雑用をすれば神経症が治ると勘違いする場合が多い。
雑用は神経症が治った結果の動作であって、神経症を治す手段ではない。もし雑用が神経症を治す手段であるなら、一日100回も掃除をしたら翌日には治るの意味になってしまい、そんな事今まで起きたことはなかった。

では何故、斎藤は雑用を強調するか。
斎藤と神経症者の違いを説明する時に、体の動きが一番分かりやすいからだ。斎藤の体はよく動く。それに対して神経症者では体が猛烈に重い。斎藤は自分に命令しなくても自然に立ち上がっているが、神経症者では動けないからやるべきをやると言う。やるべきをやるなんて言いながら生活している人は健康世界には一人もいない。

健康世界に生きている斎藤は、何かをしている時に、これをしていれば神経症が治ると考える事は絶対にないのに対して、神経症者では常に動きと神経症の治しを取引している。自然な動きは軽快で止まる事がないが、神経症の治りを取引した雑用は不自然で、間もなくやる事がなくなってしまうだろうし、第一、馬鹿らしくてやっていられない。

私のホームページの最初に、神経症とは治し病であり、治し行為が生涯止まらないと書いている。だから、神経症を治すには治療行為の完全停止をしないとならないと説明しているが、神経症者は不思議にこれを読み飛ばす。精神的盲目現象起こしている分けで、脳に強迫観念が荒れ狂うと、見える文字も見えなくなるらしい。

彼等は、斎藤の注意も無視して、あれよあれよと言う間に雑用に突入してしまう。以前、10年以上もこのホームページを見続けている神経症者が、私の雑用に感心して雑用を開始した。しかし彼の雑用は軍隊式であり、その量は恐ろしいほどで、そんな雑用は成功するはずもなく、その後彼から連絡がない。

雑用は強迫観念が消えると自然に現れるのであって、雑用が強迫観念を消す分けではない。もう一つ大事なのは、神経症の治りと言うのは一瞬であると言うことだ。神経症脱出の変化は秒の単位で起きて、結果は翌日には出る。雑用を3か月もしていながら未だぱっとしないと言うのは、神経症の穴倉でぐるぐる回りをしている事を意味する。

無為療法のゴールは健康の回復であり、不自然な行為は全て失格なのです。
健康な人は雑用を必要なだけやり、無駄にはやらない。何故なら、無駄な雑用は体力を消耗するだけだからだ。

重要なのは心の動きであり、外部から入る音に聞き入り、物に目配せをし、忘れていたものを思いだす。私が掃除、洗濯を言うのは、心が動いている時は実際掃除、洗濯をしているからだ。自然で健康的な心の動きを引き出すのが無為療法であって、けっして汗みどろになって雑用をやりまくる姿ではない。



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