森田療法批判

森田は本当に神経症を克服していたか
神経症が治ってから森田の本を読むと彼が本当に神経症を解決していたかどうか大変疑問に思う。次に記載したのは森田著「神経質の本態及び療法」から森田の神経症克服記であるが読者も参考に読んで頂きたい。
「余は14歳で中学に入学したが、16,7歳頃から頭痛持ちになった。時々心悸亢進が起こり,疲労症で、病を気にするとか、いわゆる神経衰弱の症状を持っていた。・・・
余はまた、中学5年のとき重い腸チフスにかかり、その軽快期に1日自転車乗りの稽古をして、その夜突然、心悸亢進、全身震せん、死の恐怖の発作におそわれ、医者を招いて注射をしてしばらく落ち着いた事がある。その後、その発作は、年に数回、多くは月に2,3回も起こって、大学卒業前までも続いた。これが余のいわゆる精神性心悸亢進症であった。・・・・・

余は特に高等学校と大学の所期との時代はほとんど常にいわゆる神経衰弱症に悩まされた。その前に余は18歳のときに東京に来て,麻痺性脚気にかかった事がある。東京帝大に入学してからは、常に脚気を恐れていた。入学後間もなく、大学の内科で診察を受けて、神経衰弱といわれ、その後さらに脚気の合併と診断され、1年間の大部分は薬剤と離れなかった。然るに余は、その1年級の終わりの時に、ある動機から、余の身心に1大転機の起こる機会に遭遇した。それは余が必死必生の心境を体験する事を得た事である。

それはその1年間、いわゆる病気のために、殆ど学科の勉強はできず、すでに試験間際になって、その試験に応ずる事のできない有様であった。折りしも国元から2ヶ月も送金がない。余は人をうらみ、身をかこち、やるせない憤懣の極、自暴自棄になった。よし、父母に対する面当てに、自ら死んで見せようと決心した。後に考えれば、誠におとなげない事であり、他人からみれば、きわめて馬鹿げた事であるけれども、自分自身のそのときにとっては、真剣である。薬も治療も一切の摂生を放てきした。夜も寝ずに勉強をした。間もなく試験もすんだ。成績が思ったよりも上出来であったときには、何時の間にか、脚気も神経衰弱もその行方が分からなくなっていた。国元から送金もあった。余の今までの神経衰弱は実に仮想的のものであった。もとより脚気でもなかった。・・・・
この事のあってから、余の頭痛持ちも、その後何時とはなしに忘れるようになった」
神経症とは強迫観念が暴走する心の病気で、その強迫観念が起す症状は多岐にわたる。私の場合はは異性恐怖、対人恐怖、疾病恐怖、不眠恐怖、雑念恐怖、鼻尖恐怖、高血圧恐怖、心臓恐怖、全般恐怖と数え切れないほどの恐怖に悩まされていた。その1つの不眠恐怖は、大学に入学して毎日コンパコンパで酒を飲みつづけている内に、気が付いたら消滅していた。上に述べる森田の脚気恐怖の解決に似ているが、本体の神経症は解決せず、その後30年の地獄の人生が待っていた。

神経症症状の一部の解決は斎藤ばかりでなく多くの人が経験していると思う。だから上の記述は森田の症状の一部が解決したのであり、彼の神経症性向の基本が治ったとは私は考えない。従って、森田の説く教えは全てが間違いと言っても言い過ぎでなく、過去80年に渡り日本の神経症者に無駄な努力をさせてしまった。下は森田とその弟子達の言葉でありここに批判を加える。

あるがままの間違い
この世の中にあるがままと言いつつ生きている人は誰もいない。いれば森田療法を実施している神経症患者だけであり、彼等はあるがままと言いながら神経症の世界に貼り付けになっている。健康世界ではあるがままと言う言葉そのものが存在しない。

恐怖突入の愚
恐怖突入とは、不安の中に意図的に飛び込み一挙に不安を解決しようとする行為である。恐らく神経症者皆さん試みていて、その愚かさに気が付いてるはずだ。貴方の脳は不安に対して脆弱に出来ていて、その脳に恐怖をけしかけると脳に深い傷を負わせる事になる。あらゆる病気を治す基本に戻って、負担を軽減し、不安から身を引くのが第一である。

生活の徹底
健康な人は結果的に生活に徹底しているだけで徹底しようとは思わない。もし皆さんが生活の徹底の先に神経症の治りがあると考えて努力をしていたら、貴方の生活は破壊される。生活を徹底するから神経症が治るのでなく、神経症が治ると自然に生活は徹底される。

疑わしい禅との関連性
森田の弟子達は森田療法と禅の近似性を説明するが、森田自身はその著書の何処を読んでも禅を言及していない。確かに神経症の治癒と禅の悟りは似ているが、禅では悟りを求める座禅をきっぱり否定するのに対して、森田療法では神経症を治す目的で動くよう教える。これは禅の考えとは矛盾している。

ハラハラ、ビクビクしなさい
ハラハラ、ビクビクは自然に起きる感情であり、意図的に起こすものではない。不自然な努力をしなければ、状況に応じて誰でもハラハラ、ビクビクする。それを意図的に起こそう、あるいはそうすれば神経症が治るのだと説く人間は狂いの世界にいる。

仕方なしに目の前の仕事をちょっとやる
仕方なしに目の前の仕事をちょっとやれば動きの世界に入り、神経症が治るような錯覚を覚えやすい。しかし、神経症者ではちょっとやる自分をもう一人の自分が観察している。私はこれを意識の二重化と言い、意識が二重化したら失敗で、重大な結果が待っていて間もなく鬱状態に陥る。

現在になり切る
確かに健康な人は現在になり切っているが、そうなろうとして現在になりきっているのではない。むしろ、なりきろうと考えないから自然になり切っている。神経症者が現在になりきろうとすると、意識がなりきろうとする自分とそれを監視する自分に分かれて、強い不安状態を引き起こす。

不安になり切る
不安はなり切るものでなく、ただ不安になるだけである。上と同じで、こんな努力をしているといよいよ精神病院に入ることになる。

性格の強化
ある森田療法の指導者がこの言葉を使った。これは大変な間違いであり、患者を極限状態に追い込んでしまう。事実私は入院中に激しい鬱状態に至り最悪の状態で退院した。健康な人の性格強化も怪しいのに、健康でない脳を持つ我々に性格の強化を迫るとは大変な過ちである。

粘って生活態度を正す
神経症者は不安の中で粘って目的追求をしてはならない。神経症者は今不安と強迫観念で苦しんでいて危険水域に入っている。その水域で粘ると錯乱状態にもなり得る。粘るのではなく不安を回避すべきであり、明日と言う日があるのを忘れてはならない。

神経症者は常に心のやりくりをする
神経症者は何故心のやりくりをするかを考えるべきである。やりくりするようになったのは脳が不安反応を起しているからである。病気を治す基本にもどり、先ず自分を不安から開放し、今すぐ目の前の雑用を開始すべきだ。動きこそが脳を正常化する第一歩である。

症状はあるがままにまかせる
症状をあるがままに任すことが出来なくなったから神経症になったのにこの無駄を言う。あるがままに任せる云々ではなくて、直ちにそのぐるぐる回り思考を停止すべきである。

外側を正しくすれば内側(神経症)も自ずと治る
こうあって欲しいがそのまま療法になっている。神経症は脳の狂いであり、振るまいを正せば治るような簡単なものではない。「無」という神経症者には極めて不安定な心の位置をそのまま維持できるかにかかっている。

気分本位を正す
気分本位を正せば神経症が治るかと問えば治らない。健康な人は気分本位と言うより感覚本位、無意識本位で行動をしている。神経症者を感覚本位、無意識本位にするには、先ずわれわれを強度の恐怖、不安から開放する事であり、一日中考える生活から動きを主体とする生活に改めるべきだ。

生の欲望
指導者が生の欲望と言っているようではだめだ。この嘘が長年ばれなかったのは、今まで誰も神経症が治っていなかったからである。実は生の欲望の正体は強迫観念なのです。

向上心の達成
向上心も強迫観念であり、私も向上心の実現を求めて人生を台なしにした。日本の100万人の神経症者は今日も強迫観念を向上心と取り無駄な努力をしている。

必要とあらば嫌なことにも、すっと手を出す
健康世界で誰が必要とあらば嫌なことにもすっと手を出すと言いながら動いているであろうか。健康世界とはこのような号令のない静かな世界である。

目的本位
神経症を治す生き方を指導された時に、その生き方が果たして一般社会の常識と一致しているか、健康な人と同じであるかを確認すべきである。健康な人は別に目的本位で生きているわけではなく、結果的にそうなっているだけだ。順序を逆にすると病の世界にまっ逆さまと言う事になる。



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