神経症者が描く妄想

対人恐怖の人、異性恐怖の人はこんな事を考えているのではないか。テレビの司会者が何不自由なく番組を進行させ、意気投合している姿を見て、自分にはあれが出来ないと。
自分がこの困難を克服した暁には、あのように司会役をこなす人間になりたいと神経症者は思うに違いない。しかしこれは神経症脳が作り出した妄想なのです。

神経症が治った世界とは全く別世界で、そこにはテレビの司会役などない。テレビを見ていても、単純に番組を楽しんでいるだけで司会役がうらやましいとも思わない。異性恐怖の患者が考える、異性にもてて異性と楽しく話をしている光景もない。健康世界とは困難の克服と言う言葉が消滅してしまった世界なのです。

では何を考えているかと言うと、考えていると言うより体が動いています。何かの雑務を処理していて、恐怖とか不安とか強迫観念が存在しない、楽な世界にいる。

以前、神経症者から斎藤は異性にもてないし、寂しい生活をしているだろうと繰り返しEメールが来ました。確かに持てる方ではないが、女性にもてる持てないは生活の一部であって全てではないでしょう。私の年齢になって女性にもてる事がどれほど意味があるのか。少なくとも貧困老人ではないだけでも幸せだと思う。

神経症者とは強迫観念を膨らませて、とんでもない方向に自分を引き込んでしまう人たちなのです。できない目的を達成しようとするから恐怖が増大し、恐怖が増大するからさらに克服する努力をすると言う精神的アリジゴクであり、行く先は破滅です。こんな事は神経症者も薄々分かっているが、余りにも強い強迫観念に負けて判断力を失っている。でも止めなければ破滅してしまう。

止めると何が起こるか。今まで常に前に立ちはだかっていた神経症克服の標語が突然消えて、日常の雑用をこなしている自分を発見するでしょう。時々今までの苦しみは何処に行ったのかと考えない事もないが、それより目前の雑務の処理に忙しい。先ほどまでの鬱状態とは天地の差があるが、特別に新しいものには感じない。何故なら神経症になる前の自分の姿であるからだ。しかしこの感覚が健康である確信はある。時間の経過が早いし、何よりも快適で今までの鬱状態が消えているからだ。

もはや森田も加藤諦三もない。エディプスコンプレックスも深層心理もない。健康世界とは単純で快適な世界なのです。



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