不立文字

”ふりゅうもんじ”と読み禅の書を読むと最初に出てくる有名な言葉ですが、神経症を治す上でも大変重要で無為療法の核心をなしています。

禅を志すものは全て悟りを目指す。従って指導者から悟りをどう開くか、悟りとはどういうものであるかを修行者は聞きだしたいが、 不立文字として指導者は言葉で説明することを拒否する。何故文字で説明することを拒否するのであろうか。
この世の中に存在する全てのものは文字で全部を表現しきれないと思う。いわんや悟りという自由に心が解放された世界を文字で表現するのは至難です。敢えて表現しようとするとその表現が聞く者の煩悩を刺激して本来の悟りを見えなくしてしまう。だから真に悟りを得た者であればあるほど言葉を避けようとするのです。

ちなみに不立文字を示す最も良い例をここに示しますと、南宋の禅僧、無門慧開(1183-1260)が書いた無門関の中に、有名な第七則趙州洗鉢というのがあります。

趙州、因みに僧問う、それがし乍入叢林,乞う師、指示したまえ。州曰く,喫粥了や未だしや。僧曰く、喫粥了。州曰く,鉢を洗い去れと。その僧省有り。

和尚に僧が尋ねた。「私は新参者です。道をお示しください」 和尚は「朝食の粥は食べたか」と聞き、僧は「食べました」と答えた。和尚は「では鉢を洗っておきなさい」と言い、そこで僧は悟った。

無為療法も同じように神経症者を指導する
神経症者:私は未だ神経症のなりたてですが、神経症の治し方を教えてください。
斎藤:貴方は朝食を食べましたか。
神経症者:食べ終わりました。
斎藤:それなら片付けて食器を洗いなさい。
そこで神経症者は忽然と悟った。


禅の悟りも神経症からの開放も究極の心の自由ですから、言葉から開放されたときに始めて体感できる。言葉とは理屈の世界であり、我々の前頭前野皮質が関与する。その行く先は神経症の世界であるのは皆さん経験済みです。真の神経症から開放された姿とは、前頭前野皮質の過度の介入が消えて、体を動かす脳が活発に動き出した姿です。これを私は無意識の活性化と呼ぶ。この無意識の活性化を呼び戻すにはどうしても問答を停止して立ち上がる必要があります。それには朝飯を食べたなら直ぐ立ち上がって皿を流しに運び洗うべきであり、その姿が無意識が活発化しだ姿であり、貴方は神経症の外側にいる。

我々の脳では無意識と意識は同時に活動できない。前頭前野皮質が作動しているときは無意識が抑制され、無意識が活発化すると前頭前野皮質の作動が静まる。この選択は2者択一であり、両者並存した神経症改善状態はありえない。一見冷たく突き放しているような斎藤の指導は、はるか彼方にある神経症の治癒を今この一瞬に授けようとしているある意味で神の導く手なのです。



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