神経症の苦しみは普通ではないこと


神経症者の掲示板の書き込みを読んでいると、彼らは今自分が経験している苦しみが、健康な人のそれとあまり違わないと考えているように見える。

神経症の苦しみと健康な人の苦しみは、全然違うし、苦しむ時間も違う。統合失調症の患者の苦しみを見れば分かりやすい。彼等では人の声が聞こえると言うが、人の声がのべつ幕無しに聞こえたら、それは生きるのも困難になるだろう。当然、統合失調症の患者の自殺率は高い。神経症の苦しみとはこの統合失調症の苦しみに近く、本来薬があるのなら、直ちに精神科の治療を必要とする苦しみなのだ。

それに比べて健康な人の苦しみは、言わば空腹を覚えるのに似ていて、問題を解決しろと体の内部から出るシグナルと考えても良い。その苦痛も耐えられるものであるし、耐えるのが励みになるが、神経症の苦痛は耐え難く、解決が不可能である。脳の問題個所に直接働きかける薬が出来て始めて解決する種類の苦しみだ。神経症者は、この種類の違う苦しみを通常の苦しみの延長と捉えて、膨大な時間を無駄にしてしまう。

神経症の症状は、脳の暴走による作り出された架空の苦しみと言ってよい。
苦しみは大きく分けて二つあり、第一は恐怖、不安であり、これは神経症で興奮した脳により作り出されている。興奮して暴走した脳は更に二次的問題を引き起こし意識を二重にしてしまう。こんな事は普通ない現象であるから深刻な問題を引き起こし、患者は生きた心地がしなくなる。
意識が分裂するとは、物事を実行する時に、実行する自分とその実行を見つめる自分に分かれてしまうことで、大変辛い。意識が統一されているからこそ、健康な生活が出来るのであって、意識が分裂したら、とてもまともな生活が出来ない。

我々はよく第六感と言うが、第六感とは努力の賜物ではなくて、ある日にパッと閃く直感であり、物事の本質を見抜く閃きと言っても良い。神経症者ではこの第六感が消えてしまっている。第六感は心が自由だからこそ湧いて来るのであって、強迫観念と戦っている心には期待できない。

神経症とは脳が強度の強迫状態になった状態で、患者は治す事を一日中考えている。彼等は考えて当然と思っているし、脳が強迫状態になって止める事も出来ない。ほとんどは、そのまま考え続けて、神経症で人生はお終いになってしまう。

しかし、ここに僅かだが解決手段がある。それは麻薬の治療と同じで、治療行為と言う麻薬摂取を直ちに停止することなのです。

神経症の治療とは、禁煙をするのに似ていると、ホームページを開始したころから言っている。これが最後の一本だから吸わせてくれと言ってタバコを吸ったら、永久にタバコの禁煙は成功しないように、これが最後だからこの質問に答えてくれと私に聞いて来たら、もう神経症は永久に治らない。

私は今まで、神経症者に対して動け雑用をしろと指導していたが、どうも神経症者は間違って捉えているようだ。彼等の多くは、雑用をすれば治ると短絡してしまう。これでは雑用が治療行為になってしまい、ホームページの最初に掲げている「治療行為の完全停止」を自ら放棄している。

斎藤が雑用を難なくできたのは、48歳の晩に宇佐先生の本を読んで、今後神経症治療行為を完全停止すると宣言したからだ。

このような単純な間違いを神経症者が繰り返す理由は、強迫脳に原因がある。強迫的になった脳は、私のホームページの最初に書いてある「治療行為の停止」を読みたくないし見えない。
でも、読み飛ばして雑用に突き進んでも、不自然な雑用は空しく貴方自身もとても馬鹿らしくてやっていられないだろう。不自然な雑用は周りから浮き上がってしまうし、第一強迫的に動き回ると体が持たない。

私は掃除洗濯をよく言うが、それは具体例として取り上げただけで、実際は動きであり、健康な脳が作り出す体の動き全てを言う。目配せも動きであるし、外の音に聞き耳を立てるも動きだ。健康な人とは、何かに反応して、何かを処理している人なのです。掃除10回しましたから神経症が治るはずだは、神経症者の妄想であり、それではまだまだ長い神経症人生が待っている。



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