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このニュースを読んでいて単なる事故として特に注目しなかったが、演芸ジャーナリストのコメントに「今回は歌舞伎とは勝手の異なる創作舞踊。歌舞伎と比べて稽古不足は否めない。さらに、父と愛娘の三代共演で緊張しすぎて、心に余裕がなくなったことが考えられる」 と言う部分を読んで、にわかにインスピレーションが湧いた。 我々は日常、過去の経験の蓄積により作成されたプログラムで動いている。私はこれを「無」と表現しているが、この「無」の状態が崩れた時に、しくじりや事故がおきやすいし、感情の場合は不安定になりやすい。 誰もが経験していると思いますが、日常のなんでもない動作をしている時に、何かに気を取られたり、突発事故がおきて気が動転した時、つまらない失敗をする。その場合、周りは「一体なにをやっているのだ」と失敗をした人の心の状態を気遣う。我々はその人の心が一時的に正常でないのを直感するからだ。 この失敗の原因は、通常の無意識プログラムで動作をすべきものを、前頭葉が、いらぬ命令を出したために起きている。歌舞伎の市川染五郎も、おそらくこの日は日常感じない緊張を経験したのだろう。そのため心のバランスを崩して、いとも簡単にこなせる動作を失敗して重大なことになってしまった。 無意識の動作というのは素晴らしく、何も考えないで次々とものごとを処理出来る。我々はその時動いているとは感じるが、考えているようには感じない。エネルギーの消耗は最低限で、なおかつ動作に隙がない。 ちょうど自転車を乗るのと同じで、ただ前方を見ているだけで、すいすい走る。私はこれを「無」の動作といい、動物が数千万年の進化で得た中央神経系のプログラムが指令する動作だ。 神経症ではこの「無」の動作が影をひそめて、意識が猛威を振るっている。意識地獄になった神経症者は、強迫観念に足元をからめ取られ身動きできない。彼らにとっては強迫観念と対話をしている方が楽だし、いざ立ち上がっても強大な強迫観念が立ちはだかり、動きは強制停止する。これに抗して動ける人はほとんどゼロで、大抵終日考え込む。多くの神経症者は終日どころか一生考え込み、社会と家族の大変な負担になってしまう。 神経症者の中には、自分の仕事の適性を考えて30年間もアルバイト生活している人もいるし、友達が欲しい欲しいと考えて生涯友達の数を数えている人もいる。私は彼女をどうしたら作れるか考え始めたのが16歳の年で、以来それを考えっぱなしで、気がついたら48歳になっていた。このように神経症は異常な強迫状態であり、薬があったら直ぐ入院すべき精神病なのです。 この不可能とも思える病気を斎藤は治した。 治す唯一の手段は無意識による動きであった。仕事のことを考えるなら今すぐ雑用をすべきであるし、友達の数を考える暇があるなら、今立ち上がって雑用をすべきです。私なら、どうやって彼女を作るかを考えていないで、台所の雑用すべきであった。とにかく動きが開始されない限り、我々は強迫観念から開放されない。 健康な生活は大変楽しいもので、いちいち考える必要がない。神経症が治って初めて気がついたのは、我々の生活の動作のほとんどは無意識により処理されていることだった。無意識とは過去の訓練の蓄積により完成されたプログラムだから、改めて血流を送り計算処理の必要がなく、全然疲れない。 さあ、貴方は今すぐ理由を問わず立ち上がれるか。 斎藤療法と森田療法の違いが分かるまで立ち上がらないと主張すると、貴方の人生はゴミくずと化してしまう。 ホームページへ |