意見が合う人を見たことがない


今まで、私は掲示板を20年以上維持してきたが、 意見が合った人を見たことがない。一般の常識だと、斎藤が変わり者で、斎藤と意見が合わない神経症者の方が正しいと人は言うであろう。しかし問題は神経症であるから話はややこしい。

もちろん、完治根治したと主張する人は沢山いるが、彼らは実は神経症が治ってない。何故なら、神経症が治ると、完治根治を言うのが恥ずかしく感じるからです。何故恥ずかしく感じるかと言うと、神経症とは重大な精神障害と分かり、神経症者が望む治りは妄想であったと分かるからです。

過去に妄想中の患者が同じく妄想中の患者を集めて大いにお金を儲けた事があった。加藤諦三が有名な例で、今から30年も前に本屋の心理のコーナーに行くと、横一列ぶっ通しで加藤諦三の本が並んでいた。約100年の歴史がある森田療法の本でさえ、精々数冊置いてあるだけであるからその凄さが分かるであろう。

加藤諦三の文章は、彼特有の病的な訴えに満ちていて、それを精神分析的に解説する。当時はまだインターネットが現れる前だから、人はまだ精神分析とは何か分からなかった。心の問題を難しそうな精神分析で説明をされると、素人は聞き耳を立ててしまう。実はその後10年程してインターネットが始まり、一挙に精神分析は崩壊してしまう分けであるが、加藤諦三はその前にブームを作って逃げ切った。

何故神経症者は加藤諦三の本を読むか。それは神経症を治す解答を求めるからです。しかし、加藤諦三の本には何処にも解答が書いてない。解答が近くなって、いよいよと思った瞬間に、するっと体を反して次の話題に転じる。
これを繰り返し経験すると、人は加藤諦三が実に金儲けが上手い人だと思う。本を売り続けるには、解答があるような思わせながら、次々と新版を書くのが一番であるからだ。彼はこの技術に長けていて、噂によると、一財産を築いたと言う。それを可能にさせたのは彼の文章の上手さだろう。下手な文章では直ぐ読者は離れてしまうが、文章が上手いと嘘がばれない。

時々インターネット上に見る神経症者が書いているブログも、加藤諦三の21世紀版だ。しかし、彼らは加藤諦三ほどの文才もないし、精神分析で煙に巻く技術もないから、あまり読む人はいない。ブログとは患者による日誌見たいなもので、健康な人には興味がないが、神経症者の中には読むものもいる。

結局、斎藤に取って意見の合う人は何処にもいなかった。普通なら寂しい限りであるが、神経症ではこれほどの朗報はない。何故なら、最早、斎藤は神経症でないと言う証明でもあるからだ。

健康世界に人が一旦入ると、意見があうあわないはどうでもよく、直ぐ仕事であり、収入であり、家庭をどう維持するかになる。健康世界では、治りが本物であるかテストにかけられる。満足できる仕事が出来れば合格であるし、もたもたして
成績がさっぱりの場合は不合格である。また、毎日が楽しく、時間が経つのが早ければ治っている。

健康世界では作業は全て瞬時だ。何故瞬時であるかと言うと、動作は無意識で処理されているからです。
以前、神経症者から自分は無為療法に従って、無意識で物事を処理しようとしたが失敗したと連絡があった。何をしたか分からないが、例えば自動車の運転で、最大限意識して運転したらどうなるか。そんな人が運転する車に乗る気がしないでしょう。慣れた運転手なら運転席に座るだけで、あとは何も考える必要はないからだ。
歩く例では、人は歩幅を考えて歩く事はない。次に右足を出すか左足を出すか考える事は絶対ない。これを無意識でやろうとして失敗したというなら、何をかいわんやだ。健康世界ではこのように無意識が大活躍していて、動作が早く正確で疲れないのです。

最近斎藤はフラッシュバックをあまり言わなくなった。
フラッシュバックとは健康状態から一瞬のうちに神経症に突き落とされる現象を言う。何故こんな現象が起きるのかと言うと、真の健康生活をしていないからです。
以前、斎藤は頻繁にフラッシュバックを起こしていた。その原因は森田療法にノーを突きつけて完全に離れたはいいが、幾分神経症を治す目的で雑用を開始した所に問題があったらしい。
雑用を、健康になった結果としてやる分には一向に構わないが、神経症を治す目的が少しでも入ると、これは森田療法でやった間違いと同じになって、神経症は治らない。

今は雑用を神経症を治す目的でする事はないから、もうフラッシュバックに襲われる事もない。無為療法の大原則はまず療法の完全停止であり、その結果として体が軽くなり、自然に動き始め、気が付いたら一日中雑用の処理で忙しかったは万々歳なのです。



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