意識についての再考

神経症者の言動をみると、彼らは恐ろしく意識を多用しているのが分かる。彼らが書きつける掲示板の文章には、哲学的、心理学的言葉が並んでいて、健康な人の単純な表現からは遠くかけ離れている。私は神経症から抜け出して20年以上も経つから、彼等神経症者の文章にはうんざりします。

つい最近、サンフランシスコ州立大学の心理学モーセラ助教授が、意識についてユニークな発表をしており、その中で彼は「意識とは会議の通訳見たいなもので、無意識から上がって来る情報に応答しているに過ぎない」と言っている。我々の意識に対する思い入れを突き放した表現で、皆さんも驚いたに違いない。しかし、私はこれを読んで直ぐ無為療法の「無」に通じていると思った。

少し前までの心理学は、ホラー・ムービーのような、恐ろしげな話に満ちていたのを思い出すであろう。フロイトの無意識と言い、ユングの深層心理学と言い無意識とは深山に潜む悪魔のようだ。

モーセラは意識とは無意識に応答しているに過ぎないと言うが、私はそれを更に進めて「意識とは脳と言う会社の正門に立っている守衛みたいなもの」と言う。毎朝出勤してくる社員(無意識からの情報)に敬礼しているだけで、一々人の顔を覚えていない。脳と言う会社を動かしているのは出勤してくる社員(無意識)の一人一人であって守衛ではない。守衛(意識)は立っていて敬礼しているだけであるから、契約社員で間に合う。

モーセラも私も、意識はむしろ脇役であり、意識の脳全体の情報処理総量に占める割合は知れていると考える。ほとんどの情報は無意識で処理されていて、そのまま意識を通さず筋肉に命令するルートもあれば、一応形だけ意識の黒板に書きだして、意識の認可を求めるものもある。
恐らく一人の人間の脳では、毎分毎秒膨大な情報が処理されて、脳から筋肉に命令の形で伝達されているのだろう。しかしその命令の多くが意識の黒板に書きだされることなく実行されている。

だから健康世界では生きるのが楽なのだ。一々考えることなく、毎日のお決まりの雑務をこなしている。疲れるのは筋肉だけであり、神経が疲れるのは特殊な仕事をした時だけである。そんな日とは、普段慣れないことをする日であったり、上役との緊張関係や、対外折衝で神経をすり減らすような時だ。

こう考えて不思議でないのは、我々は人間であるが動物の一種類に過ぎないためだ。知恵は発達しているが、人間の動作の神経系統が、他の動物のそれとは異なっているとは考えにくい。動物と異なる必要がないのは、すばしこい猿の動きを見れば分かる。あるいは獲物を追って走る犬の動きを見れば分かる。人間の10倍以上の敏捷さと正確さで身をこなしているではないか。

動物もその進化のプロセスを手繰って行くと、爬虫類、両生類、魚類に到達する。これらの動物の動きを命令しているのは、体に組み込まれた簡単なプログラムと原始的生物学的コンピューターである。我々人間と言えでもこの原点から出発しているのであって、人間だけが特別なシステムを持つ理由がない。

神経症とはこの神経系の基本枠組みを解体し、意識一本に統合して生き直そうとしている病気に見える。そんなことは出来る分けがないから、彼等の生活は行き詰まり、地獄の底をはい回る状態になる。
彼らは私が雑用をしろと言うと、何をしたら良いかと聞いてくる。雑用とは犬なら、まどろみから覚めて、あくびをして、よいしょと腰を上げる動作である。これが出来ないと言うのは「私は最早動物ができません」と言っているに等しい。

ある神経症者は、自分は対人恐怖が酷く、今後どんな仕事を選べば良いでしょうかと聞く。おい待ってくれと私は言いたい。仕事の前に、既にこの人は神経伝達系が崩壊しているではないか。一日中考えまくっていて、無意識からの命令が手足に届かない。無意識からの命令が遮断されると、自然な動きが消滅してしまうのだ。こんな人がどんな仕事を選んでも、とても仕事が務まらない。仕事とは自然の動きの延長であり、特別に突出したものではないからだ。

無意識の命令系統が崩壊していると危険な例をもう一つ。
自動車の運転は慣れてくると、人はあまり運転は考えないで、何か別の事を考えている。前方を見ているだけで、手足は適切な動作をする。何かが飛び出て来ても、無意識脳がとっさの命令を下して事なきを得る。これを森田療法のように、しっかり前方を見て、足をブレーキペダルに置き、信号を確認しと、意識レベルで操作しようとすると、体の自動反応系統に乱れが生じ、ブレーキが間に合わなくなる。

もっと際どい例を取ると、体操の3回転着地のウルトラCを試みるとして、普段とは違って、今日はもう少しかっこうよくやろうと意識すると、2回転がやっとで、着地に失敗し尻餅をつく。そんなことがないように、オリンピック選手は毎日練習に励み、無意識命令系統を完成させ、それを体に覚え込ませているのである。

このように我々の日常は如何に無意識が重要な役割をしているか説明してきた。無意識脳の縦横の活躍により、我々は前頭葉の活動を高度の判断に投入できる。健康生活とはこのように至って単純であり、神経症者のように「苦しくてもやるべきことをやる、雑用を工夫と気配りでやる」とか言っている人は一人もいないのである。



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